梨木香歩さんの講演会は2回目です。今回は、”問いの中で”というタイトルに加えて<遭難死しないための児童文学>という副題が加えられていました。
開演10分前から、チケット購入順に番号が呼ばれ、比較的前の席に座ることができました。しばらくすると、もうマイクが入ってるのかと確かめる声が聞こえ、「あっ、梨木さんだ」と、うれしくなったのでした。
2月、滋賀県の甲西町立図書館であった講演会では、山にでも行けそうなパンツルックにレッグウォーマーというアクティブなスタイルでしたが(梨木さんは寒がりらしい)、今回は髪もあごの線あたりで切りそろえ、いくぶん痩せられた印象。モスグリーン(『丹生都比売』の装丁よりちょっと深い色)の薄手のニットアンサンブルに、花柄の(ローラ・アシュレイ?)ロングスカートというフェミニンな装いでした。
東京の講演会に参加された方の詳しいレポートで予習していた私は、やっぱりハイジの話がでるんだろうか?と興味深く見守っていたのですが、ハイジの話は出て来ず、参加者から予め集められた質問に答えるという形で話を始められました。途中、「答えられる質問と答えられないものとがあるけれど、ひとりの方の質問に対して最低一つは答えたいと思います。」と説明され、後で会場からの質問にも答えて下さいました。
【 お 願 い 】
メモと記憶を頼りにまとめたレポートです。こうして書いてはみたものの、梨木さんのお話のエキスがぽろぽろとこぼれ落ち、別のニュアンスを含んで来るような気がしています。テープから起こした記事でもきちんと意図が伝わらない場合があることを講演でもおっしゃっていましたが、梨木香歩さんの言葉を書き留めているつもりでも、自分のフィルターを通して入ってきたものしか伝えられず、あやふやな点、本来の意図から離れたものになっている場合があるかもしれませんが、その場合はお許し下さい。
★『からくりからくさ』で伝えたいことは何ですか?
伝えたいということを意識しない。
読み手を意識して書いていない。
自分自身の必要に迫られた、切羽詰まったもの。
言葉にできる部分とできない部分があって、言葉には入っていけない領域がある。
言葉というのは、本当にあてにならないもので、どこまでこのあてにならない言葉で構築出来るかということをいつも考えている。
☆「ぱろる」の対談で、書きおこされた原稿をチェックしていたら、自分の意図とは違う風にまとめられている部分があった。なんとか自分が伝えたい形にしようと、もうエネルギーを費やして校正したのに、どういうわけかその校正が通らずにそのまま載ってしまった。
「それが、なぜか意味がつながってるんですね。おかしいことに。」と言いながら、
ホワイトボードに書いて説明してくれる。
* 正:賦活化 −−> 誤:復活化 (P19中段)
* 正:領海 −−> 誤:了解 (P25下段)
*『裏庭』でスナッフが扉をトントントンと3回たたく場面がある。
照美は、トントンと2回たたく。
西洋人であるスナッフと、東洋人である照美の文化の違いを端的に表したかった。
なのに、記事では、男の人がトントントン、と三回ノックしたという風になっている。
「どうなっちゃったのぉ!という感じ。」(笑)
【「季刊ぱろる7 翻訳って何?」[パロル舎]
"屹立する言葉" 神宮輝夫さんとの対談 プラス1=甲木善久 】
そして、言葉というのは、本当に油断ならないあてにならないものだと繰り返す。
☆ 創作方法
プロットは考えないで、似たモチーフを持っていき、響き合うもの、言葉では表されないものを並べた。
テーマもはっきり言えないが、と『からくりからくさ』で竹田くんが話す部分を朗読(P368−369)
「ねえ、これからきっと、こうやって、僕たちも、何度も何度も、国境線が変わるようなつらい思いをするよ。何かを探り当てるはめになって、墓を暴くような思いもする。向かっていくんだ、何かに。きっと。小さな分裂や統合を繰り返して大きな大きな、穏やかな統合のような流れに。草や、木や、虫や蝶のレベルから、人と人、国と国のレベルまで、それから意識の深いところにも浅いところも。連続している、唐草のように。一枚の、織物のように。光の角度によって様々に変化する。風が吹いてはためく。でも、それはきっと一枚の織物なんだ。」
まずこれがあった。そして、全てが収れんするようにと持っていった。
外来種であるセイタカアワダチ草で染め物をすると、奥の深い色が出る。
統合...国もそう。かすかに似ているけれど、連続しているテーマ。
★ 何故染め物、織物について描かれたのですか?
言葉というのは、油断も隙もないやつだと思っている。
手仕事には、まるごと受け止めてくれるものがある。
ぬくもりを感じられたら目的が達成できたと思う。
物語で、言葉によってその確からしさのようなものを伝えようと、丹念に書くことを心がけた。
☆ ファンタジー筋肉
自分と外界との間にあるシールドのようなもので、"ファンタジー筋肉"と呼んでいる。
(ホワイトボードに、中心に自分、そのまわりを丸く囲んだ外界、外界と自分を隔てるシールド部分を同心円で描く)
最近この"ファンタジー筋肉"が弱くなってきているのではないか。神戸の事件の少年も、この矯(ため)の力が弱かったのではないか。
そして思ったのは、手仕事みたいなものがシールドを強くするのに役立つのではないかということ。
★ 暮らしぶりについて
『からくりからくさ』の中で庭の雑草を食べるというのがでてきましたが、あれは実際にやっていることです。高校時代、何も食べる気がしない時期があって、ヨモギのさみどりが風にゆられるのを見て、このさみどりの気配だけ食べていけたらどんなにいいだろうと思ったことがあった。
■ 梨木さんの声で "さみどり" という音が発せられた時、とても美しく響いて、すごく惹かれました。
講演会が終わってもしばらく、頭の中に、さみどりの気配、さみどり、さみどりと離れませんでした。
早緑でしょうか?(マーガレットに言わせれば、雑草イーターですね。)
多感な高校時代を送られたことが窺えるお話でした。
■ 講演には関係ありませんが、『からくりからくさ』の(P54)、テーブルクロスの上にデコレーションされた草花の唐草模様というのがとても印象的でした。交互に並べて縁取ったカラスノエンドウの蔓の間に、露草の葉とヘビイチゴの実を置き、ハルジョオンの花をぽんぽんと並べる。白いテーブルクロスの上に、息をのむほど美しい模様が再現できるでしょうか?試してみたい気がしています 。
★ イギリスから受けた影響はありますか?
魔女というのは、群れから離れた所で生きている。(集団になじめない、まいのために)『西の魔女が死んだ』では、魔女修行という形にした。
イギリス人も群れない人達で、わりと生きやすかった。そしてイギリス流の生活、知恵も、気づいたら知っていた。
(梨木さんが下宿されていた)ベティー(当時76)のお屋敷にはナニーがいた。ナニーというのは、7〜8才から奉公に出る子守のおねえさんで、彼女は学問という意味では無学だけれど、家事に精通している人だった。言葉もヨークシャなまりで聞き取れないんだけれど、ひっついて教えてもらった。旧式なやり方だけれども、とても好きだった。
★ お薦めの本はありますか?
「大好きなご夫婦がいらして、これはだんな様の方なんだけど」と、鈴木守さん(竹下文子さんのだんな様)の『鳥の巣のうた』を紹介。
(ちなみに、梨木さんは鳥が好きで、「日本野鳥の会」に入ったこともあるくらい野鳥が好きだとおっしゃっていました。)
右のページに鳥の巣の写真、左ページに詩が書かれ、右下隅にその巣を作った鳥のイラストが詳細に描かれている。鈴木さんは星野道夫さんの死にショックを受けられて、その後、鳥の巣の収集にとりかかり、展覧会を開いたり絵本まで作ったのだと説明し、「彼が、詩を書くなんて知らなかった」と言いながら詩をいつくか紹介。
誰かがわたしの中で泣いている。
誰かがわたしの中で動いている。
誰かがわたしの中で生まれた。
誰かがわたしの中で泣いた。
「人間というのは、こんな風に立ち上がるものなんだなと感じた。」と語り、最後のページを紹介。
荒涼とした写真、主のいなくなった鳥(ワシ?)の巣。左のページには、
あなたがここにいてほしい
★ ネコの足をふんづけた話
滋賀県立図書館によく行くんですが、この前もプラタナスの並木を歩いていたら、中が硬くて、外が柔らかいものを踏んづけてしまった!
実はネコの足だったそうなんですが、自分もびっくりしたし、むこうも驚いた。「ごめん」といった梨木さんに、ネコのリアクションが、もうどう反応していいのかわからない様子で、「今回は不問に処す」っていうように振り向き振り向きしながら去っていった。
そして、この話をわかってくれるのは神沢利子さんしかいない!と思って電話でこの話を微に入り細に入り話していたが、中が硬くて、外が柔らかいものを踏んだというところまで話した時、神沢さんが電話の向こうで「ギャーッ!」と叫んだ。どうしたのかと思ったら、「今、白骨死体が浮かんだ!」とおっしゃった。
それほど物語性を摂取する力の優れた人。
★ 『記憶は嘘をつく』 ジョン・コートル 著 講談社
この本の中から、人は無意識に記憶をつくり変えながら生きているという例を2つ紹介してくれる。
クラリネット奏者だった祖父の手袋とクラリネットが、実際には見たことがなかったのに、はっきりと記憶され、著者に大きな影響を与えた話と、ある姉妹の話。妹がレイプされ、そのことは誰にも言えないこととしてしまっておいたが、何年も経ってふとそのことに触れた時、驚いたことに妹はお姉さんの方がレイプされたと信じていた。
私達は私達が生きていく上で、魂が必要としているものを摂取しているのではないか。
食物をとって栄養とするように、吸収しやすいように作り替えていくのではないか。
実際に起こったことが年月に従ってオリジナルと違って変化していくことがある。単にボケたのではなくて、老人力を発揮するのでもなくて(笑)、長い年月を経て調整をずっとずっと続けてきたのではないか。
(自分の作品が)どうか読み手の中で、生きる上で力になるように働いてくれることを願う。
(ある作品が)合う、合わないというのもある。でも、本当は、もしかしたら合っているのかもしれない。何かがきっかけで、今まで合わないと思っていたものが、自分にぴったりくる場合もあるだろう。
一番魂の近くで働いてくれるものが物語性の高いものだと思う。
★ 洞察を得るための「ああそうだったのか体験」
本を読んで「ああそうだったのか」という洞察を得ることが大切。作者に全部説明してもらうのではなく、自分の想像力を働かせて自力で到達しないとダメ。
北村薫『月の砂漠をさばさばと』新潮社から、最初の一編「くまの名前」を紹介してくれる。
とってもほのぼのとした話。さきちゃんのお母さんは、お話を作る人で、寝る前に即興でお話をしてくれる。お父さんはいないんだけど、詳しくは書かれていない。
あばれんぼうのくまさんがいて、信号なんかもこわして、全部むらさきにしてしまう。お母さんが、さきちゃんに、どうしようかと話す場面、そのくまさんが、新井ゆみこちゃんの家の子供になって、あらいぐまさんになっちゃったという部分を朗読してくれる。
ここで、だいたいのところを目星をつけておく。そして…と、続きを朗読。
翌朝、「くまさんは新井さんにだまされたの?」「名前が変わって、もうあばれることができなくなったの?」と問いかけるさきちゃんの言葉に、「あっ」と思うこと、それに自分で到達することが大切。
本人の世界観がガラガラと、カタストロフィー(大変動)を起こし、自分の枠組みも動くように伝わっていく、そのガラガラを起こしたい。
★ 今後の作品について
自分の作品はフラクタル構造(部分と全体が同じ)をしていて、リアス式海岸の岩と砂粒のように、全く同じものが、いくつもいくつも重なっているようなもの。
今までは伏線をいっぱい張ったような物語を書いていたけれど、今度は下染めみたいなことをしたい。物語をあらかじめ敷いておいて、その上に新たに物語を重ねるというもの。
例として、サンケイ新聞(?)8月24日の"子どもに贈るショート・ショート"に、載った「ムシに遭ってムシしなかった話」という作品のコピーを配ってくれる。これは、最初の実験的なものだそう。
あや子という子の通っていた学校には、ムシと呼ばれる不思議なものがいて、
ムシにまつわる言い伝えというのが紹介される。 (これが下染めの部分)
ある日学校に分度器を忘れたのに気づいて、取りに行ったあや子は知らない
女の子に出会い、ある体験を通じて、心を通わせる。 (新たな物語)
これは、共感することに飢えた子の話。
長い年月が経つうちに、読み手の祖となり、種となる物語を追求できないか。
湖の中に小石を投げ込んだら、いくつもいくつも輪ができるように、作りあげていこうと思っている。
■ もうすぐ発売予定の『りかさん』は、伏線の物語と、下染めの物語をリンクさせる位置にくるはずだとおっしゃっていました。
★ 子供の頃の読書体験
・小学生の頃『少女パレアナ』好きだった。いやになるけど、今でも残っている。
・7〜8才で『赤毛のアン』のダイジェスト版を読んだが、好きじゃなかった
・5〜6年生でドストエフスキー、モームなどを読んでいた。
・中学生時代は子どもの本から離れていた。
・高校で身体をこわし、1年休学した時、『赤毛のアン』にカムバックした。
(リルケ『ある詩人に贈る詩』についての森有正さんの本の影響?)
自分の疲れた精神にすんなり受け入れられた。エミリーのシリーズも読んだが、アンよりもエミリーにはるかに近いと思う。アンもエミリーも癇癪持ちで、今の自分が癇癪持ちなのはそのせいだと思う。人格形成の時期に読んだ物語が深い影響を与えた。
高楼方子さんは、リンドグレーンの人。ヤンソンのムーミンシリーズもそうだが、跳んだり跳ねたりという物語がそのまま彼女に影響を与えている。『時計坂の家』など、4つも年上のくせに、どうしてそんな風に書けるの?と思う。
鶴見俊介のいう「親問題」(自分自身が生まれた時から持っているテーマ)というのがあるが、(本の内身を)自分自身が消化吸収できるようになった時に大好きになるのではないか?
★ 今までに興味を持っていたものは何ですか?
「宗教」です。(自分では特定の宗教を信じてはいないけれど。)
人は、何によって支えられるのか?その人を内側から支えているものは何なのか?何がその人を内側から支えるのかという感覚をずっと捜していた。(これについては)プロです。身体を張って考えてきた。自分の存在がかかっている。
そして、ロシアの入れこ人形に例えて説明。人形(マトリョーシカ)の形ではなく、縦長の楕円形で、中心の小さな楕円を幾重にも取り囲むように、いくつかの楕円を描いたもの。
普段は外側の部分で対応しているけれども、一番中心には根っこの自分がいて、幼い時から切れ目無く存在している。根っこから繋がっているという感覚が自分を安心させ、根っ切り離されると不安になるのではないか。
「児童文学」には幼い頃の感覚を取り戻す力がある。空気振動を起こし、そのバイブレーションが、自分の中の年齢層に豊かに繋がっていく。常に人の一番内側までふるわせるような作品を書きたいと思っている。
★ 神沢利子さんの話
インタビューをもとにした、神沢利子さんの『おばあさんになるなんて』昌文社を紹介。
『くまの子ウーフ』で、ウーフのからだからは、おしっこが出てくるから、ウーフはおしっこでできているときつねが言う。ウーフは、自分はおしっこで出来ているのかと悩むが、おしっこは、喜んだり悲しんだりしないから、ウーフは、ウーフでできているんだという結論に達するというお話。
うんこも身体の中から出てくるけど、どうしてうんこじゃなくおしっこなのか。という質問に、以前は、取り繕った答えをしていたが、おしっこの方が上品だと差別していた。やられたと思った。
神沢利子さんは、とても苦労をしてこられた方で、四畳半の雨漏りのする部屋で、だんな様には女の人がいて、そんな中で、生きるために書くしかなかった。
なのに、とてもファンタジー筋肉の発達させた人で、幼い頃、トコちゃんと呼ばれたいた頃の自分を、くまの毛皮みたいに被っている。いつも、いろんな幼いトコちゃんをカルガモのようにずらっと引き連れて歩いている人。
★ 遭難死しないための児童文学
遭難した人は、たいてい元に戻れない。
山で道に迷った人のほとんどの人が、ああ、あそこで間違ったんだと気づいても、なかなかその場所に戻ることができない。起死回生で、どこかで正しい道が見つかるんじゃないかと思って、引き返すことができずに前に進む。自分が今までやってきたことが無駄だと思えて戻ることができない。でも、それは無駄じゃない。
同じ本を何度も読むことも無駄じゃない。
自分の幼い頃を見失ってしまわずに、魂に滋養を与えることも時には必要。
自分は、詩人だと思っている。
たまたまこうなってしまったけれど、本を出すということも、自分の一番大事な部分を汚してしまう気がしていた。でも、鍛えてくれるからよかったと思う。いろんな方の反応があること、全く行ったことのない場所、人の魂と出会っているんだと思えるから。
★ 会場からの質問に答えて ★
★ 『エンジェル エンジェル エンジェル』について 宗教との関係
天使の羽ではなく、ワシの羽だったところなど(答えにくければ、何でも自由に話して下さい。)
児童文学をやっているという意識がある。
子供の頃、本を読んで熱中していて、物語の終わりに近づくと悲しくなった。
自分が物語からはじき出される気がして。
だから、(自分の作品では)ラストを突き放すようなものにはしたくなかった。
作品の中で抱えられているようなものにしたい。
人をHoldingする(抱える)ようなラストにしたい。
文学というものとは違うかもしれない。
『丹生都比売』のラストには苦しんだ。『裏庭』の方が本になったのは遅かったが、『丹生都比売』が書き上がったのは、『裏庭』が完成した後だった。
★ ご自身のおばあちゃんとの関係について
☆ 中学の頃亡くなった祖母は、学校教養は無かったが、例えば「小さい子が泣くのは、お宝を持っていて、どこに隠そうかと思って泣いている。隠し終わって安心してほほえんで起きる。」というような話をよく聞かせてくれた。
息子の夜泣きがすごかった時「きっとこの子には、すごいお宝があって、今まで隠し切れていないんだ。隠せないくらい大きなお宝を持っているんだ。」と思えて救われた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
☆ もう一人の祖母は、父の弟夫婦と暮らしていたが、13で亡くした娘(梨木さんの叔母にあたる)がいて、梨木さんをその子の名前で呼ぶことがあった。
寝たきりで、ふたりっきりになると、その名前を呼ぶ。 しんみりした感じ。不思議な存在だった。
■ 何気なく話されましたが、「え〜っ!!!」と驚きました。作品の柱となるお話の根っこが、こんなところにあったのですね。単行本としては発行されていない短編の中にも大きなつながりを感じる作品があって、梨木さんの作品は、何度も何度も読み返して味わわなくてはいけないなと強く感じました。
★ (時間があったら話したいとおっしゃっていた)着物のこと
着物は好きで、気付けの免状をとるくらい凝っていた。
”着物をどうやったら着てもらえるか”という会があって、(若い人達と?)話し合いをした時、着物をレンタルすれば、手入れもしなくていいし、いいんじゃないかという意見がでた。気軽に着物を着てくれるのはいいことなんだけど...と、メンバーの人達は何かさびしそうだった。
着物は、親から子へ、子から孫へ譲り渡していける。虫干しをしたり、手間暇かかる手入れも大変だけれど、愛おしむ、慈しむという感覚がある。最近、この感覚が無くなってきている感じがする。
小さい頃から家で動物を飼うことのなかった人がいて、動物をかわいがるという感覚を知らなかったその人は、型から入った。ネコを飼って、抱き上げたりして、苦労があったと思うけれど慈しむという感覚を自分のものにした。
反対に、家族全員が動物好きで、たくさんのイヌを飼っている家がある。うちのゴールデンもそのお宅からもらったのだけれど、生き物をかわいがる、愛おしむという感覚が、ごぐ自然に生活の中にとけ込んでいる。 慈しむ文化というのは、伝えられるもので、個々人の歴史の中にエッセンスを途絶えさせないヒントが隠されていると思う。
着物は、さわっているだけで落ち着く。と締めくくられました。
【サイン会】
この前は『丹生都比売』にサインをいただいたので、今回は『からくりからくさ』を持って行きました。
「甲西町の図書館の講演も聞かせていただいたのですが」と言うと、
「遠いところを有り難うございます。」と立ち上がって頭を下げて下さる。
恐縮してしまって「どうもありがとうございました。」と答え、
「講演会で『からくりからくさ』は、彦根、近江八幡が舞台だとおっしゃっていましたが」
「あちらの方には申し訳ないですね。」
「『からくりからくさ』を読んだら、あのあたりへ行ってみたくなりました。」
名前を書いた紙を見て、読み方を確かめて下さる。ちょっと珍しい漢字なので、気になった様子。
【おまけの話】
サインをいただいた後、隣接の喫茶コーナーに入ると、隅のテーブルに"予約席"の札が...。
しばらくして、やっぱり梨木さんが現れて、スタッフの方2人と食事されていました。
一度など、講演中の落ち着いた話ぶりとは打って変わった「ぎゃー」という声が聞こえて、
どうやら、梨木さんのお好きなどなたかのお話だったようです。梨木さんは好きな方の話を
する時は、本当にうれしそうに話されます。すごく感情の豊かな方なのでしょうね。
ちょっと普段の元気な姿が垣間見られたような気がしました。
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