音楽ノ未来・野村誠の世界パンフレット/滋賀県水口町碧水ホールにおけるガムランプロジェクト コンサート『音楽ノ未来・野村誠の世界』パンフレット 2003.8.29
最新 2003.10.2


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(2003年8月29日に碧水ホールで開催された「コンサート『音楽ノ未来・野村誠の世界』」のパンフレットからhtml 版です。)





















ごあいさつ

 本日は、コンサート「音楽ノ未来・野村誠の世界」にお越し下さり、ありがとうござ います。

 このコンサートタイトルは、碧水ホールの方で命名していただきました。 どうも、ぼくの音楽は未来との相性がいいのか、5年前にアサヒビールで行ったコン サートの時、担当の河村めぐみさんと、その上司の加藤種男さんがさんざん議論した 末に、 「Music to the Future〜野村誠の作品を中心に」
  というタイトルでした。未来に関しては、やや慣れっこになってきた感はありますが、 「野村誠の世界」というタイトルは、なかなかインパクトがありました。『世界』で すから、ぼくの世界をしっかり提示したい、と思いました。
 そこで、プログラムも充実させてみようと考えました。 プログラムには、野村誠の活動を長年見てきている信頼できる人に原稿をお願いしよ うと思いつき、美術家で親友の島袋道浩くん、 アサヒビール株式会社で芸術支援の仕事をしてこられた河村めぐみさん に、めちゃくちゃ急に、本番1週間位前に、突然原稿を依頼しました。
 こんな急な原 稿の依頼(しかも、原稿料なし!)は、普通はないです。それでも急いで書いてくれ ました。本当にありがとうです。 それから、作曲家の三輪眞弘さんが以前書いてくれた文章も掲載させてとお願いした ところ、これまた快諾してもらえました。
 皆さん、是非読んで下さい。
  それから、ワークショップでの共同作曲していくプロセスも、『ワークショップ日記』 紙面で可能な限り伝えようと思いました。でも、これは、本番を見て/聴いてから読 んだ方が面白いと思います。
  おまけに、野村誠年表を、これまた大慌てで作りました(大事なことで、書き逃した こともいっぱいありますので、いずれ完全版を作りたいです)。これは、暇な時に読 みたければ読んでもいいよ、という全くのおまけです。
 とにかく、今日のこのコンサートがあるのは、碧水ホールの中村館長、スタッフの皆 さん、本日の演奏者の片岡祐介さん、片岡由紀さん、林加奈さん、マルガサリ、ティ ルトクンチョノの皆さん、柏木陽さん、そして、ワークショップに参加してくれたモッ チ、ナナコさん、ななみちゃん、あーちゃん、モエちゃん、あやちゃん、ゆいちゃん、 じゅんこさん、タケオくん、そして、ビデオ撮影で参加してくれた京都女子大学の野 村ゼミの皆さん、などの色んな人のおかげ+ぼくのおかげです。色んな人の力だけで は成立しないので、ぼく自身も負けずに頑張ります!
 では、皆さん、本日のコンサートを思う存分、楽しめるだけ楽しんでいって下さい。

  野村誠


 1

ちくわ、がんばれ!
島袋道浩(美術家 、野村誠友人)


  ちくわ、がんばれ!雨どい、がんばれ!ピアノに負けるな!勝たんでええけど、とり あえず負けるな! 野村誠の音楽は実は戦いの音楽である。
 
 と書いて、今日、演奏会が終わったら納得してもらえると思うのだけど、ちょっと飛 ばしすぎたみたい。今度はゆっくり始めます。新しいタイトルから。

20代、野村くんの家によく泊まって

  今はどうなのか分らないけれど、20代の野村くんは本当によく寝ていた。いつも昼 まで。時には夕方まで。いつ作曲、仕事をするの?と思うぐらい。そのことをからか うと野村くんは口をとがらせて「寝るのはすっごく大切。寝てる間に夢を見たり。考 えたり。」と確信に満ちている。
  実際、いつも寝ていてもいつの間にか作曲ができていたり、起きて文章をダーッと書 きあげたりしていたから、本当に寝ている間にいろんな仕事をしていたんだろうなと 思う。
 そんな野村くんを見ていると三年寝太郎のことを思い出すけれど、すごいのは野村く んの中には三年寝太郎を寝かせたままにしておけるあのお母さんも同居していること。 誰になんと言われようと、確信を持って自分を寝かせ続けられる。お昼頃、電話が鳴っ ても「あとでかけなおしてもらえますか?」いたってマイペースで再び眠りに戻る。

 野村くんのすごいのはこの自分のやり方を信じ、続けられるところ。 人は人よりかなり得意なことをみつけると、それを続けますます磨こうとするのに、 野村くんは平気で得意なことを続けないし。
 ピアノが得意なのに、平気でピアノを置いて鍵盤ハーモニカに何ヶ月も没頭しだした り。普通の楽器すらおいてちくわを吹きだしたりする。雨どいを楽器に使いはじめた りする。音楽すらしばらく置いて、将棋に没頭したり、キャッチボールに熱中したり、 絵を描き出したり。
 上手にできるそこそこ予想ができることよりも、上手くできないからこそあふれてい る未知のおもしろさと可能性の方を選ぶ。自分自身がよ
り発見でき楽しめる方を選ぶ。 そして続けているうちに、いつの間にか将棋や鍵盤ハーモニカやちくわなんかを自分 の音楽になくてはならないものにしてしまう。実はどんなものでも自分の音楽につな がると知っている。
 ここでは水は出ない、とみんなが思っている場所を迷わず掘り続け水を出してしまう、 野村くんは音楽の井戸掘り名人みたいなところがあると思う。

 そして野村くんがいろんな所を掘らなくてはならないのには理由があって、世間の人 達はここの井戸の水が一番うまい!とすぐに決めてしまいがち。すべての音楽を五線 譜に置き換えたり、ヨーロッパがなんたって一番主義になったり。それで野村くんは こっちにもおもしろいものがあるよ、こっちにもこんなやり方があるよ、とかけずり 回らなくてはならなくなる。
  野村くんの活動はちくわよりピアノが偉いと思われている世界の中で、「いや、ちく わもピアノと対等だよ!」という、実はちくわ解放の戦いなのだと思う。それが一見 戦いに見えないところがまた野村くんのすごさ。
 ただ壊したり、否定したりするだけでは本当にはなんにも変わらないと野村くんは思っ ている。今まであったものは壊さず置いておきながら、新しい何かを笑いとともに提 出する。五線譜もいいけどマンガ入りの紙切れでもいいでしょ、という風に。いろん なものがあって選べた方が豊かだし、笑顔がなければ何も変わらない。大切なのはパ ロディーではなくユーモアだよね、野村くん!
 今日はちくわは吹くのかな?雨どいは演奏するかな?
 野村くんの演奏会に行くと僕は笑えて泣ける、いい映画を見た時の感じになる。
 野村くんがピアノを弾きはじめる。優しい音が終盤、だんだん激しくなってきて、野 村くんの腕が4本、そして6本に見えるようになる。野村くんの頭の中の音と現実の 音がすごい早さで追いかけっこをしているように見える。よく見ると野村くんは苦し そうに何か叫んでいる。「負けるな!」僕も心の中で叫びながら応援しているよ。


 2
プログラム

      鍵盤ハモニカ
神戸のホケット

FとI


      おもちゃ楽器
ちんどん人生

      ピアノ
たまごをもって家出する

Intermezzo


休憩

      ガムラン他
スケ子っ!!!
    ●ワークショップで生まれた新作・初演


踊れ!ベートーヴェン

曲目解説

1 神戸のホケット(1996)ショートバージョン
 1995年にイギリスのヨークに住んでいた頃、神戸の震災のためにコンサートを 行った。その時のオープニング曲として作ったメロディーをもとに、鍵盤ハーモニカ 8重奏として作曲。
 本日の演奏は、NHKの教育番組「ドレミのテレビ」でゲスト演奏するために、2 分ジャスト、4人編成で書き直したショートバージョン。
 ちなみにこの曲、今度の土曜日には、オランダで、ドラム、ベース、ギター、サッ クス、ピアノ、ヴァイオリン、サンプラー、鍵盤ハーモニカ、おもちゃ、の編成に書 き直して演奏します。

2 FとI(1999)
 1999年にエレクトーン奏者の海津幸子の委嘱で作曲した「FとIはささいなこ とでけんかした」の一部分を鍵盤ハーモニカ四重奏版にしたもの。当時、FとIとい うカップルが企画者になっていたパリでのコンサートで、二人がけんかしてしまって 周りも巻き込まれて大変だったらしい。この曲は、そんな最中に完成。結局、二人は 別れてしまったらしい。
 当時、老人ホーム「さくら苑」での共同作曲を初めて、作曲しても作曲しても変化 していく過程を面白く思ったので、一気に作曲せずに、1日1小節以上は作曲しない ことにして、毎日朝顔に水をやるようにして作曲していった。後半部分は一気に作曲 しましたけど.・・。

3 ちんどん人生(2000)
 1999年に発明した「しょうぎ作曲」という共同作曲の方法で作曲された作品。 岐阜在住の片岡祐介、奥田由紀を林加奈と二人で訪ねた時に、遊び気分で(自分達が 楽しむために)作曲。作曲した時は演奏会で演奏することがあるなんて、これっぽっ ちも思っていなかった。その後、演奏会で演奏するたびに好評で、ついには来年1月 にはオーケストラ編曲バージョンの「ちんどん人生」が山口情報芸術センター開館記 念イベントとして演奏されることになっています。

4 DVがなくなる日のためのインテルメッツォ  (2001)
 DV(恋人や夫の暴力)に取り組むカウンセラーの草柳和之氏の委嘱で作曲。DV のシンポジウムなどに言っても暗い話しかなくって、出口がないので、何か音楽でD Vをなくしていきたいという思いを象徴的に表す曲を作ってもらえないか、と依頼さ れ、自分が安易に取り組めるテーマではない、と思ったものの、草柳氏の熱意に押さ れて作曲を引き受ける。その後、実際に被害者の人の体験談を直接うかがったりして、 ますます作曲できないと追い込められた末、自分なりに出口を見つけて作曲ができた。
 メンタルサービスセンターより楽譜が販売されていて、草柳氏自身も講演会の時に 演奏したりしている。
  その後、DVに関わるボランティアをしている精神科医の高沢悟氏の知人のCDレー ベル(エアープレーンレーベル)からCDが発売され、シンポジウムに参加した作曲 家の高橋信氏がクラリネット版に編曲し、編曲版の出版が決定するなど、様々な人が この曲を巡って、動いている。
5 Away From Home With Eggs
 (たまごをもって家出する)(2000)

 2000年は日蘭交流400周年で、オランダでも数多くの記念のイベントが行わ れたようです。オランダ在住のピアニスト向井山朋子さんは、日本の作曲家3人とオ ランダの作曲家2人に新しいピアノ音楽の作曲を委嘱した。その時、向井山さんから 注文があった。
 「うちに娘いるんだけど、コンサートの時って、いつも楽屋に押し込めておかなきゃ いけないから可哀想なのよ。それで、娘と一緒に演奏できる曲の作曲お願いしたいん だけど、どう?」
娘のキリコちゃんと出会った時は3歳だったが、コンサートの本番が近づくにつれて (5歳になった頃には)、
 「私は舞台には出ない」
 と断固主張。結局、出演しないことになった。そこで、キリコちゃんの声の録音が曲 に登場する曲を作ることにした。
 曲は、15分。一つの人生を生きるように作曲した。作曲の終わり(人生の終わり) が近づくにつれて、冒頭部分で書きたかったけど実現できなかったフレーズとかを妙 に思い出したりした。老人が5歳の頃の夢を思い出すかのような気分になった。  曲のエンディングに流れる効果音には、キリコちゃんの声、老人ホーム「さくら苑」 に住んでいた小澤キヨさん(故人、録音当時88歳)の声がコラージュされている。
 キリコちゃんが大人になった20年後、この音楽を彼女はどう聴くのだろう?50 年後に、よぼよぼの爺さんになったぼくが、この曲を聴いたら、どんな気分になるだ ろう?そんな未来に向けて、そして今に向けて、ぼくはこの曲を発信しようと思って 書いた。

6 スケ子っ!!!(2003/世界初演)
 今回のワークショップで作り上げた新曲。ジャワのガムランの演奏経験があまりな い人たちでアイディアを出し合いながら作りました。詳しくはワークショップ日記を ご覧下さい。 

7 踊れ!ベートーヴェン(1996)  1995年の終わり、イギリスから帰国したばかりのぼくに、「ガムランの新曲を 委嘱したい」と依頼してきたのは、中川真さんだった。当時のぼくは、ガムランにつ いて、本当に無知で、楽器の名前も知らなければ、どの楽器がどんな音が出るのかも 知らなかった。知らないのに曲を作れ、しかも、その曲でインドネシアツアーをする、 と言ってくる中川真さんも、随分いい度胸をしていると思った。でも、いい曲が作れ るという妙な自信があったし、是非やってみたいと思ったので、即OKした。曲は一 晩で一気に書いて、中川真さんにファックスで送りつけた。
 曲の中間部は、比較的自由になっていて、シンガーソングライターのTaskeと共演 するバージョンがあったり、貝塚少年少女合唱団が出たり、ジャカルタのアンクルン 楽団が登場したり、プランバナン中学校のパフォーマンスがあったり、インドネシア の太鼓名人が登場したり、大正琴の演奏が響いたり、と演奏するたびに新しく考える。 今回は、どうなるかもワークショップ参加メンバーと相談です。


 3


出演者

野村誠
柏木陽
片岡祐介
片岡由紀
林加奈

・・・マルガサリ
中川真
Bambang Sri Atmojo
家高洋
田淵ひかり
東山真奈美
西岡美緒
西真奈美
林稔子
本間直樹

・・・ティルトクンチョノ
岩井義則
小関ひとみ
坂本準子
長谷川嘉子

・・・WS参加者
小笠原あゆみ
小笠原ななみ
坂本準子
坂本萌
坂本絢
坂本夕妃
新倉壮朗
村木奈々子
村木基起
プロフィール

野村誠 (野村誠年表参照)
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片岡由紀  音楽療法・音楽家 幼少よりたいこやピアノをおもちゃにして育ち、その後音大受験とは無縁のピアノレッスンを受ける。三重大学人文学部にて国際法を学んだあと、江原音楽療法専門学校にて音楽療法を学ぶ。在学中よりお年寄りや子どもたちとの音楽活動をはじめる。1997年から4年間、岐阜県音楽療法研究所に勤務する。現在フリーで、演奏活動と知的障害者施設などでの音楽療法活動を行っている。
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片岡祐介 1969年生まれ。10歳くらいから即興演奏や作曲に興味を持ち、木琴やピアノのデタラメ演奏をおこない始めた。東京音楽大学打楽器科に入学するが、音大での音楽に違和感をおぼえ、中退。その後、商業音楽、現代音楽などの分野で、打楽器奏者として活動。97年より3年間、岐阜県音楽療法研究所で、音楽を担当する研究員として勤務。障害者と音楽をすることに夢中になる。 現在、フリーの音楽家。作曲作品に「月」(卓上木琴、鉄琴と鍵盤ハーモニカ)2001、「サボテン島」(マリンバとピアノ)1996等がある。
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柏木 陽  1970年東京生まれ。93年、演劇集団「NOISE」に参加し、演出家・劇作家の故・如月小春とともに活動を続け、ワークショップ指導の経験を積む。毎年夏に行われる兵庫県立こどもの館のワークショップでは、中高生との野外移動劇の創作のみならず、地域の教育関係者らを対象にした演劇指導者養成講座も行っている。また、毎年春に行われる世田谷パブリックシアターの「中学生のためのワークショップ演劇百貨店」では、脚本から、衣裳、小道具、舞台装置にいたるまで、中学生の発案による手作りの表現を模索している。俳優としての主な出演作品は、「A・R」など93年以降の劇団NOISEの各作品「ミュージカル・アニー」明治生命、99年、ルースター役「3年B組金八先生」TBS、02年、遠山医師役。現在NPO法人演劇百貨店代表。
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林加奈 1973年東京生まれ。東京芸大大学院(油画)修了。 「ハナナガ星人」「がわんとわん」などという、物語のような絵を描いている。 交代で絵をズームしながら描いていく「かわりばんこ絵画(しょうぎ絵画)」という 共同制作にも取り組む。 楽譜が絵になっている「いかにしてカレー」、自身の絵画作品「犬が行く」をテーマ とした「犬が行く」などを作曲。鍵ハモやおもちゃ楽器をたくさん使って演奏する。 鍵盤ハモニカオーケストラ「P-ブロッ」のメンバー。空手初段。
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マルガ・サリ インドネシア、ジャワ地方のガムランを源流とし、古典から現代ガムランをまでを演奏する1998年に誕生した新しいグループ。大阪府北部の山間にある寒天工場を改装した「スペース天」を本拠地として活動している。野村誠をはじめ、多くの作曲家がマルガ・サリのために新作を寄せるなどその活動に期待も大きい。インドネシア国立芸術大学と提携し、頻繁に交流を行っているほか、地元、豊能町牧子供会とのセッションなどの活動も興味深い。メンバーは20名。代表中川真(大阪市立大学教授)、音楽顧問シスワディ(インドネシア国立芸術大学)。専属舞踊家佐久間新、ウィヤンタリ。
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ティルト・クンチョノ 2002年7月から発足した碧水ホールのレジデント・グループ。企画・監修中川真、代表岩井義則。練習は毎週水曜日、碧水ホールで。碧水ホールの保有するジャワガムラン楽器群『ティルト・クンチョノ』を利用して、ガムランの演奏を楽しみながら新しい音楽の地平を探る。


 4

「野村誠」   三輪真弘 (作曲家)

 最近、作曲家の野村誠さんの音楽をまとめて聞く機会があった。既に向井山朋子さん のCDに収録されているピアノ作品で、彼はぼくを音楽だけで本当に泣かせた唯一の 日本人作曲家である。だから期待はいやでも高まる。一見、明るく無邪気。しかし、 ユーモアやしばしば曲名に示唆される物語的な演出にノセられるほど、ぼくは素直な 聴き手ではないつもりだ。それでも彼の音楽はどれも、他人事のような音楽ばかりが 溢れる日本に咲くたった一輪の花のように力強く存在していた。小学校や老人ホーム での活動、アマチュア・プレーヤーによるおもちゃ楽器の演奏などの特徴ばかりが目 立ってしまい「にぎやか楽団」などと紹介されて、彼も複雑な気持ちなのだろうが、 作曲家である野村誠はどうして未だにあまり話題にならないだろうか?「しょうぎ作 曲」と呼ばれる集団作曲の試み、最新の「お手紙楽譜」と呼ばれる(ぼくが勝手にそ う呼ぶのだが)記譜法などその活動自体がユニークであるのはもちろんだが、音楽の 可能性を模索する現代の作曲家がまぎれもなく作曲家であり続けながら、かつ音楽の もつ本来の喜びを逃すことなく作品を生み出すという離れ業を一体、彼以外のどの作 曲家がやってみせてくれたというのだろう?

 例えば「お手紙楽譜」ではアンサンブル全体のスコアというものが存在しない。楽譜 は作曲家が演奏家に宛てた手紙のように「……しばらくすると隣のクラリネットがこ のフレーズの演奏を始めるから、そうしたらこちらのフレーズに進んでください」と 楽譜を交えた言葉で書かれている。それはまるで複数の人々が様々な場所に行くため に「地図」を渡されるかわりに口述で指示を受けるようなものである。演奏家には自 分と他のプレーヤーの相対的な位置や関係しか知らされず、通常とはまったく異なっ た時間感覚、つまり思考の方法と自由を与えられ、同時に文章によってその時々の繊 細なニュアンスが伝えられるのだ。その際、今述べた、「地図」という全体の鳥瞰図 こそヨーロッ
パ式のスコアのことであることは言うまでもないが、スコアと同様に正 確に書かれ、再現性があるのに、「お手紙楽譜」はまったくスコアとは別の概念のも のである。そしてそれは「どうして誰もそんなことしなかったのだろう」と思ってし まうほどに簡単なことだったのである。記譜法もさることながら彼のこの、シンプル であたりまえのことをそのままやってのける姿勢はそのまま、彼が自分の音楽の必然 にだけ目を向け、それに忠実に従う驚くべき強さから来るものなのだろう。それによっ て彼の音楽は、リズム法や調性がどのようになっているかとか、現代的な技法はどの ように使われているのかとかの分析的な攻撃を無化し、その実体を開示するのである。 それはしばしば、即興演奏家の音楽のようでいながら、演奏の勢いを見事に統合した 極めて知的な方法論によるコンポジションとして現れてくる……そんなことより、彼 の多くの作品の特徴である、美しくも見事なボリュームとプロポーション、夢見るよ うな音楽の持続を体験すれば、こんな感想文など無意味なのかもしれないとも思う。
(webマガジン『水牛のように』2002年7月より転載)


 5

●野村さんには、人間のありとあらゆる感覚をくすぐって活性化する魔法のような 能力があると思う。
(河村めぐみ:アサヒビール)

 野村さんには、人間のありとあらゆる感覚をくすぐって活性化する魔法のような 能力があると思う。
「踊れ!ベートーヴェン」
  私が野村さんに、最初にくすぐられた曲(厳密に言うと「タイトル」)だ。

  私事ではあるが、当時、自分が関わっていたコンサートシリーズで、「なにか」 やってみたかった。
  その「なにか」は漠然としたもので、よくわからないんだけれど、「これから」 につながる「なにか」を、今まで見たことも聞いたこともない「なにか」を感じ てみたくて、ずっとそれを探していた。
 そんなとき、音楽文化論の小沼純一さんから「京都でね、すごく面白い音楽家が いるよ。」「最新作のタイトルがね、『踊れ!ベートヴェン』って言うんだよ」 「子どもたちと一緒に作った曲なんだよ」と教えてくださった。
「踊れ!ベートーヴェン」!?
  そのタイトルに新鮮な衝撃を受けたのと同時に、私は思わず口元がゆるんでしま い、ワクワクしてきたことを覚えている。音もなにも聞こえてないのに、そのタ イトルのフレーズだけで、すでにココロがくすぐられた。 だって、あの「ベートーヴェン」が踊るんだよ。それだけでも、いろんなイマジ ネーションが頭の中をかけめぐる。そして、それから、野村さんに会いたい! 「踊れ!ベートーヴェン」と聞いてみたい!思いつづける日々がはじまった。

  実際に私が野村さんに会えたのは、その話を聞いた半年後(この曲が作られた2 年後)の1月、担当していたコンサートシリーズで、高橋悠治さん、高橋アキさ んにより、野村さんの曲「ナマムギ・ナマゴメ」が日本初演されたときだった。 この曲を聴いたときも、なんだかドキドキ、というよりは、血がドクドクといっ たほうがいいなあ、「ナマムギ・ナマゴメ・ナマタマゴ」をカウントするピアノ のリズムが体の中をかけめぐり、えも知れぬ興奮を味わった。
 その日、そのコンサートの帰り道に、私は、その年の夏に行うコンサートを一緒 に作ってほしい!と、P-ブロ ッのメンバーと一緒に歩く野村さんに話をしたと思う。コンサートの興奮そのま まに、ずいぶんと饒舌
に喋ってしまったようにも思う。そして、それをニコニコ と聞いてくれた野村さん。そのプランは、その年の8月に実現された。野村さん が手がけた音楽で構成されたプログラム、そして、最後には、そのコンサートで 委嘱した作品「ごんべえさん」を、音楽家と、また同じ会社の社員やその家族 と、そして私も加わり、演奏した。
  野村さんの音楽を聞いていると、ときどき、その音楽への印象を言葉にするより 前に、涙が出ることがある。目頭の奥が熱くなり、そして、目じりのところにじ んわりと涙がたまってくるのである。「ごんべえさん」を演奏しているときも、 そうだった。感動した、とか、いい音楽だ、とか、そんな単純な言葉では表現で きないような感覚。自らの生命にたっぷりと栄養が行き渡るような感覚。これも 野村さんの魔法。   あれから、5年。 いろんな活動をする野村さんを見てきて、また、そんな野村さんに、また、その 生み出す作品に、たくさんくすぐられつづけている。どれもこれも、私にとって は大切な体験であり、それらに出会うたびに私の体の中にあるいろんな感覚が元 気になる。 あのとき探していた「なにか」は見つけたような気もするし、いや、まだまだ、 どんどん新しいなにかにつながっていっているはず。だから、私はこれからも ずっと、野村さんの行く先にある「なにか」を追いかけようと思う。

  そして、私は5年ごしの想いかなって、今日、「踊れ!ベートヴェン」を聴く。


 6

●このコンサートに連動して、6日間(+リハーサル+本番)のワークショップが開催されました。そこで生まれた1曲が本日のプログラムに含まれています。

ワークショップ日記 
文:野村誠+柏木陽


8月8日
台風のために中止になってしまった。

8月9日 14:00〜16:00
 1日遅れて、第1回。まずは、野村誠の自己紹介を兼ねて、小学校時代に作曲したピ アノ曲「たぬきときつね」の演奏を聴いてもらう。小学校の時に、ピアノで好き勝手 に遊ぶように音を出しながら、アアデモナイ、コウデモナイと作曲していた話をする。 続いて、片岡祐介さんを「デタラメ弾き」の大家と紹介して、デタラメ弾きの名人芸 を見せてもらう。その後、林加奈さんを「デタラメに歌う」大家と紹介して、即興歌 を歌い出すと、片岡由紀さんが、ガムランの楽器を演奏し始めたので、みんなでガム ランをデタラメ演奏することにした。
 デタラメ即興ガムランセッションが長時間続いて、皆さん楽器と馴染んだ感じ。休憩 後に、もっちゃんが箱馬(舞台の台を高くする木の箱)を叩いていた。いい音がする ので、みんなで叩いた。これが新発見。

8月10日 14:00〜16:30
 この日は、メンバーの名前の自己紹介。ガムラン伴奏の即興音楽にのせて、「あなた のお名前なんて〜の!」と歌ったりしながら、みんなの名前を覚える。その後、「しょ うぎ作曲」のルールを説明するため、「ちんどん人生」を実演したり、片岡由紀さん、 片岡祐介さん、林加奈さんの3人で、その場で「しょうぎ作曲」をしてもらう。スケ 子さんのバレエを、ライバルが貶すシーンが、大爆笑。
  休憩後、1〜6月生まれチーム(ホールで作曲)と7〜12月生まれチーム(ロビー で作曲)に分かれて、「しょうぎ作曲」で2曲作る。最後に、お互いに発表し合う。 3歳のもっちゃんは、ルールが分かっていたり、いなかったりで、決められた演奏を する時もいい音を出すし、決められていない突発的に出す音もいい音だった。もっちゃ んは、何をしても音楽になる人だということが分かった。祐介さんの「浮き沈み」パ フォーマンスで、ななみちゃん、あゆみちゃんが大爆笑。

8月20日 18:00〜20:30   柏木陽さんによる劇遊びワークショップで開始。「今からやることが、本番に関係あっ たり、なかったりします!」と柏木さん。一同爆笑し納得。「だるまさんが転んだ」 のバリエーション。まずは、オニが声を出さずにやる「だるまさんが転んだ」。続い て、「ロバが転んだ」、「ネコが転んだ」、「トビウオが転んだ」など、色んなもの になって転んでもらう。途中で「太鼓が転んだ」、「ピアノが転んだ」と楽器になっ て転んでいる坂本3姉妹も面白かった。続いて、楽器の音を聴いて、その音のイメー ジでみんなで転んだ。
途中からタケオくんの演奏で、みんなが転び始める。そのうち、 失格した人から、ガムランの楽器の演奏に移って、ついには全員で即興セッションに なった。
 休憩後は、前回やった「しょうぎ作曲」を発展させる。タケオくんのリコーダーをあ ゆみちゃんが「雅楽みたい」と言うので、冒頭部分に新たに「なんちゃって雅楽」演 奏が加わった。中間部の「浮き沈み」パフォーマンスを何人もで横並びでやってみた りした。箱馬叩きも、曲に投入され、タケオくんの「ビール」飲み演技の音が、エン ディングの音になった。8時半のワークショップ終了時には、3歳のもっちゃんはお 眠になっていた。

8月21日 18:00〜21:00
 まずは、「スケ子」の曲の続きを考えることにした。空手の場面の続きを考える。8 ビートに合わせて、少し楽器の合奏が膨らんだ。続いて、柏木くんの劇遊びワークショ ップ。みんなで体で彫刻をする。また、昨日のように色んなものになった。音を体で 表現するのを、今日もやってみた。途中から坂本3姉妹が音を出す。みんな楽器をた たくのに夢中。柏木惨敗。早速即興セッションとなる。ガムランには近寄らない3姉 妹。でもおもちゃ楽器はノリノリ。みんなで包むようにおもちゃ楽器コーナーとセッ ション。
  休憩が盛り上がった。ホール内にいるコウモリを捕まえたり、ポップコーンをみんな でつついたり、モエちゃんからカンフーを教わったり、小笠原姉妹と簡単な手遊びゲー ムをやったり、、、。中村館長お薦めのUFOで遊んだり。1時間近くの休憩が終わ ると、もう8時半。
 残りの時間で、とにかく昨日の「浮き沈み」の続きを考える。リズムが激しくなるの に、陽気になれない「浮き沈み」をやっていて、そこにあゆみちゃんをリーダーに子 どもたちが、「浮き沈み」に刺激を送る。そこで、野村が閃いた。「ココに彫刻を入 れよう」。これで、曲は完成へと数歩前進できた。あゆみちゃん達は、衣装を作ろう と言い始めた。

8月22日 18:00〜20:30
 「ロビーで作った曲」〜「スケ子」〜「浮き沈み」の3曲を続けて通してみる。マル ガサリ、ティルトクンチョノのメンバーも加わって演奏。彫刻を移動させてもよいこ とにした。踊り狂うのを、オニごっこ形式でタッチで交代するようにした。
  休憩後は、「踊れ!ベートーヴェン」の歌の部分などを練習。いよいよ、明日は直前 のリハーサルです。 最後に新曲のタイトルをみんなで相談。「スケ子」に小さな『っ』をつける。「!」 をつける。「!!」にしようとあーちゃん。「!?」がいいと、ななちゃん。「!」 が1個になりそうなところで、もえちゃんの「!、3つ」が決定打となり、「スケ子 っ!!!」がタイトルになった。


 
野村誠年表

この続きが2004年8月1日『音楽ノ未来・野村誠の世界2004』のプログラムに掲載されています。
1968
 名古屋で生まれる

1974
 幼稚園で足踏みオルガンを覚える。

1977(小2〜3)
  病気がちでほとんど学校に行けなかった2年生の3学期、自宅で突然作曲を始めた。 最初の作曲は、16小節の2部形式のピアノ曲だった。3月には、1ヶ月の入院生活。 退院後、山田誠津子(のちの遠藤誠津子)にピアノを習い始める。バルトークのレコー ドを聴かせてもらったり、林光のピアノの本を紹介してもらったり、現代音楽につい て話を聞かせてもらったり、音楽の技術的な側面以外の部分で有益なレッスンを受け る。学校の作文などで尊敬する人にバルトークをあげ、怪しまれる。 ピアノ曲「笛の音」、「雨だれポタン」、「電車ごっこ」などを次々に作曲。

1978(小3〜4)
 ピアノ曲「星のワルツ」作曲。当時は、天文少年で毎日望遠鏡で空の星を観察してい た。

1979(小4〜5)
 ピアノ曲「たぬきときつね」の作曲に没頭(完成は80年に入って)。

1980(小5〜6)
  ピアノ曲「たぬきときつね」が、クラスで大ヒット。連日、弾き続ける。 トランペットとピアノのための「さすらいのルンペン」を作曲。

1981(小6〜中1)
  ピアノ曲「月の光」作曲

1982(中1〜2)
  ピアノ曲「ソナタ」作曲

1983(中2〜3)
  作曲に行き詰まり、即興演奏に明け暮れる。 この頃、作曲家としての才能がないのではと、作曲の道を諦めかける。

1984(中3〜高1)
  高校受験への逃避からか、受験が近づくと創作意欲が増し、作曲が面白くって仕方な くなる。 ピアノ組曲「ONIの衰退」(全5楽章)を作曲

1985(高1〜2)
  ピアノ曲「天国と地獄のファンタジー」作曲。 作曲家の戸島美喜夫氏を訪ね、芸大受験のためのレッスンを受けようと思う。しかし、 戸島氏に「先生に言われた通りに曲を直すようでは、一流にはなれない」と言われ、 音大を受験しないことを決意。



1986高2〜3)
  ピアノ曲「無題」作曲

1987
  京都大学理学部に入学 大学同期の大井浩明(現在はクセナキスのピアノ協奏曲のCDに起用される現代音楽 のピアニストとして活躍、スイス在住)としと知り合い現代音楽の楽譜をいっぱい見 る。 次々に知り合う友人(鈴木潤、芦津直人、小林薫ほか)と即興演奏。

1988
  作曲サークル「LAS」を結成。 民族音楽を聴く会などを開催。
1989
  京大西部講堂で3日間に渡るコンサート「ケージバン」を開催。3日間で40曲以上 のプログラムを演奏。これを機に、大学の授業はほとんど出席しなくなり、音楽活動 に専念。

1990
  大学の授業には、全く出席せず、音楽活動に専念。 京都パフォーミングアーツセンターでコンサート「偽装難民がやてきたよ」、関西日 仏学館でコンサート「時の終わりのために」を開催。 京都市立芸術大学ギャラリーでグループ展「肉コンプレックス」に参加。 ウォークマンをつけたパフォーマ−のための「組曲」を作曲。 フルート2本とヴァイオリンのための「Talea」を作曲。これ以降、楽譜に完全に記 譜された作品を一切書かなくなる(次に書くのは、96年の「踊れ!ベートーヴェン」 や「神戸のホケット」)。その後の主な作曲の仕方は、口伝えや共同作曲になる。 他、毎月1回以上の頻度で、次々にコンサートを行う。 バンド「プ−フ−」結成。 ジョン・ゾーン(作曲家、サックス奏者)に「ニューヨークに住んで音楽をすればい い」と言われて、そんなものかと思い、ニューヨークに渡り音楽活動を開始。

1991
  ニューヨークにあまり魅力を感じず、京都に戻り、大学卒業を目指す(当時は、留年 して大学5回生)。 ソニー・ミュージック・エンタテインメントのオーディションに応募したところ、テー プ審査、地区予選などで選ばれ、東京の本選に出場し、意外にもグランプリとなりC Dデビューが決まってしまう。 あひるが丘保育園で、杉岡正章鶴、井上信太とパフォーマンス。スライドの投影と楽 器の演奏に園児たちは、飛び跳ね、踊り、楽器を叩き、トランス状態になった伝説的 な一日になった。


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1992
  NHKの音楽番組「私達新音楽人です」に出演。
初めての路上演奏を行う。 京都大学理学部卒業。卒業式の前後は、レコーディングの真っ最中だった。 CD「バードチェイス」が発売される。CDを出すのは、これが初めて。

1993
  名古屋市美術館でのコンサート。美術館で演奏するのは、これが初めてだった。 杉岡正章鶴、山下残と歩行器によるパフォーマンス作品「バレエ」を公園など野外で (ゲリラ的に勝手に)公開練習する活動を続ける。犬の散歩の人、スケボー少年らと 交流する。 島袋道浩(美術家)と路上バンド(仮称)を開始。 京都造形芸術大学で特別講師。大学で講義をするのは初めて(とは言っても、演奏を して聴いてもらうのが、ほとんどだったのですが、、、)。 テープ音楽「レレレのレ」を作曲。

1994
  劇音楽「大温室」を作曲。一般公募で集まったボランティア演奏家たち約30人で2 0曲近い曲を演奏。 ブリティッシュカウンシルの助成金を得て、イギリスへ。ヨーク大学を拠点にイギリ ス各地で音楽活動。

1995
  一時帰国し、水戸芸術館で「でしでしでし」を初演。中学生の吹奏楽団が加わった6 0人近い作品。中学校を訪れた時に、初めて「作曲家」という肩書きを名乗り、その 後も「作曲家」と名乗り続けることになる。「でしでしでし」は、イギリスでも別バー ジョンで数度に渡って上演した。 イギリスの小学校、中学校などでワークショップをたびたび行う。 Hugh nankivell(音楽家)と、Bishop of Fish Drinks Sakeを結成。リーズ、ハダス フィールドでライブ。 Charles Hayward(ドラマー)とロンドンで何度か演奏の仕事をする。 ヨークで「神戸のためのコンサート」を開催。 10月、帰国。 路上で「サザエさん」を演奏し始める。

1996
  The British Journal of Music Education(ケンブリッジ大学出版)に、原稿が掲載 される。原稿が出版されるのは初めてで、なんと日本語よりも英語が先だった。 島袋道浩のインスタレーションのため自動ピアノのための「南半球」を作曲。
Charles Haywardの日本ツアーで共演。その演奏がロクスソルスよりCDとして発売 される。 「踊れ!ベートーヴェン」作曲。初めて作曲委嘱料というものをもらう。 インドネシアツアーでも好評。 ローランドの音楽教育通信に原稿を書き、初めて原稿料というものをもらう。
「教育音楽 小学版」に「子どもたちと音楽をつくった!」を連載開始。この頃は、 原稿を書き慣れなかったので、一日がかりで時間をかけて原稿を書いていた。 第1回ミュージックマージュフェスティバルに出演。鍵盤ハーモニカオーケストラ 「P−ブロッ」を結成し、鍵盤ハーモニカだけで、演奏。大好評で、海外からのミュー ジシャンたちにも絶賛され、すぐにイタリアのフェスティバルから資料を送ってくれ、 と連絡が入ったりして、これは海外公演もすぐできると甘く考えたが、その後、P− ブロッは、なかなかブレイクしなかった(なんと、未だに海外公演をしていない!)。 JCC ART AWARDSの現代音楽部門最優秀賞を受賞。作曲、演奏の仕事をつなぎながら、 足りないと路上演奏で食費を稼ぐという苦しい時期に、応募もしていないのに、推薦 されて賞金が舞い込んできたのは、本当にありがたかった。 「神戸のホケット」作曲。
1997
 2台ピアノのための「ナマムギ・ナマゴメ」を作曲。 シンガーソングライター「Taske」のCDを島袋道浩とプロデュース。他のアーティ ストのプロデュースをするのは、初めてのことだった。 国立武蔵野学院という教護院に音楽を教えに行く。学校の先生をするのは初めての経 験。入所している子どもたちは、少年犯罪を犯した子どもの中でも、国立クラスの凄 い犯罪を犯した人たちだったらしい。この曲弾いて、あの曲弾いてと、リクエストに 応えて、あれこれピアノを弾いていたら、喜ばれた。 振付家ジャンクロード・ガロッタの要請で、グルノーブル国立振付センター(フラン ス)で作曲家/ピアニストとして働く。ガロッタとの方向性が合わず、プロジェクト は完成しなかった。 岐阜県音楽療法研究所に講師として招かれ、ワークショップ、パネルディスカッショ ンなどを行う。話をしてお金をもらう初めての仕事だった。 箏曲「押亀のエテュード」を作曲。和楽器のために作曲するのは初めてだった。

1998
 「ナマムギ・ナマゴメ」がオランダ、ベルギーで初演されて、好評との知らせを受け る。日本では、アサヒビールロビーコンサートで初演され、アサヒビールでも大好評。 その後アサヒビールから、数多くの支援を受ける。また、この曲がきっかけで、クラ シック系や現代音楽系の演奏家から、作曲の委嘱がくるようになった。 アサヒビールの人達が「野村誠は面白い」と宣伝してくれたようで、企業のメセナ関 係者、アート業界の人々にあっという間に名が知れ渡り、業界で有名な人になってし まう。この辺から収入は激増して、お金の心配がなくなり、好きに仕事ができるよう になるし、平気で断れる経済力になる。 富山大学非常勤講師として、現代文化の授業でストリートミュージックについて語る。 大学の講師をするのは、これが初めてだった。 アサヒビールの委嘱で「ごんべえさん」を作曲。尺八、箏、ちくわ、鍵盤ハーモニカ などのアンサンブルで初演。 箏の教則本のために、何曲か練習曲を作曲。出版される。 パリで開催された「どないやねん!現代日本の創造力」に出演。1ヶ月半に渡りパリ に滞在し、様々な演奏、パフォーマンスを行った。

1999
  アーツフォーラム・ジャパンの企画で、「野村誠ワークショップ、お年寄りとの共同 作曲」を行う。老人ホームを40回以上訪れ、共同作曲を続けた長期プロジェクト。 朝日新聞の天声人語で紹介されたのを皮切りに、新聞、雑誌、テレビなど様々なメディ アで話題になり、最初は嬉しいと思ったが、結局、都合のいいように報道されただけ で、だんだん取材が面倒になる。活動が誤解されてしまいそうな記事、勉強不足で取 材に来る記者などに、だんだんうんざりする。そんな中で、NHKの野方さんという アナウンサーは、「野村さんとは、台本を見ずに自由に話をしたい」と、生放送にも 関わらず、台本を全く見ずにインタビューをしてくれたのは、嬉しかった。 「つん、こいつめ」初演。初演時の演奏が、CD「糸」に収録。フォンテックより発 売される。 初の著書(CDブック)「路上日記」(ペヨトル工房)が発売される。これまた、新 聞、雑誌、テレビなどで報道された。この年は、この本のプロモーションのために、 テレビ、ラジオなどに出演したりで、創作に割ける時間が少なくなっていった。 電子オルガンのための「FとIはささいなことでけんかした」が、パリで初演。


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2000
 前年は、お年寄りとのワークショップと路上日記のプロモーションに明け暮れたので、 2000年は創作欲が高く、委嘱も続いたので、次々に新作を発表できた。 ピアノ曲「たまごをもって家出する」を作曲。オランダで向井山朋子がCD録音。 ガムラン曲「せみ」、山下残のダンスのための「足を喰う犬」、箏曲「りす」、アコー ディオンとヴァイオリンとチェロのための「How Many Spinatch Amen!」などを作曲。 慶応大学で初の「しょうぎ作曲」ワークショップ。16人という大人数で実践して、 人数の多い「しょうぎ作曲」の可能性を発見。 「エーブルアートワークショップ2000」で、基調講演というのを任され、なんと 3時間に渡って講演をした。基調講演というのは、生まれて初めて。 しょうぎ作曲の初めてのイベント「野村誠としょうぎ作曲まつり」を開催。29人に よる「しょうぎ作曲」で40分の大作が完成。

2001
  「タコとタヌキ 島袋野村芸術研究基金」を設立。東京オペラシティアートギャラリー での「出会い」展で、2ヶ月間事務所を開き、やりたいことがあるけど、お金やアイ ディアがちょっと足りなくてできない人たちの企画を聞いて、実現のために、一緒に 考えたり、お金を提供したり、アイディアを提供したりした。連日、何十人、何百人 の人と出会い、話を続けた。 京都女子大学児童学科で講師を始める。女子大生とのコミュニケーションに苦労しな がら、自分の音楽表現でどこまで関係が作れるのか、模索を続ける。音楽の根源や自 由について、考えさせられる貴重な場となる。 NPO法人「芸術家と子どもたち」の理事をすることになる。最初の頃は、真面目に 理事会に参加できていたが、スケジュールが合わずに、だんだん幽霊部員状態になっ ている。 野村幸弘の呼び掛けに応じて、毎月のように『岐阜大学芸術フォーラム』(幻想工房 主催、岐阜大学主催ではありません)に足を運び、交流したり、話をしたりする。 ガムラン「桃太郎」第1場初演。 「山口アートマネジメント隊」というプロジェクトで、市民スタッフで野村誠チーム を選んだ人たちと企画を考え始めるが、なかなか企画は実現しないで、月日が流れて いく。 ピアノ曲「DVがなくなる日のためのインテルメッツォ」を作曲。初演とともに、楽 譜が出版される。 ヘイワードギャラリー(ロンドン)での展覧会「Facts of life」に参加。「しょう ぎ作曲」をロンドン市内のアパート、家屋、美術大学、中学校、小学校、などで地元 の人々と行い、滞在中に50曲以上を作曲する(片岡祐介、林加奈、池田邦太郎、片 岡由紀が参加)。 初のオーケストラ作品(ピアノ協奏曲)、「だるまさん作曲中」を作曲。全5楽章、 30分の作品。 「セルフエデュケーション時代」(フィルムアート社)に、「共同作曲/野村誠プロ ジェクト」を執筆。 高嶺格(美術家)、エマニエル・ユイン(ダンス)、パク・ホビン(ダンス)ほかと 共同制作作品を上演。 立教大学に非常勤講師としてお話しに行く。立教大学で倒れて急逝した如月小春さん の一周忌の意味も込めて。
2002
 箏の7重奏「52×51」を作曲。若手の箏演奏家のグループ「箏衛門」が演奏。演 奏がとてもいいので、感激。 ピアノ曲「DVがなくなる日のためのインテルメッツォ(間奏曲)」が、CD化。エ アープレーンレーベルより発売。 豊科近代美術館でワークショップとコンサート。野村幸弘との映像作品「学校の音楽」 などを発表。 ASIASの企画により野村幸弘との映像作品「体育館の音楽」、「屋上の音楽」を 発表。 新設された東京芸大の音楽環境創造科に、非常勤講師として巻き込まれ、学生たちと プロジェクトをやることしなる。 クラリネット、箏、パーカッション、マリンバ、コントラバスのための「自閉症者の 即興音楽」を作曲。アサヒビールの委嘱。 佐倉市美術館での「耳をひらいて」で、野村幸弘との映像作品「城址公園の音楽」、 「武家屋敷の音楽」を発表。 「桃太郎第2場」初演。 箏アンサンブル「せみbongo」初演(水戸芸術館にて)。 東京芸大で、学生の企画により、松原勝也(ヴァイオリン、東京芸大助教授)とのジョ イントトーク&演奏&作曲ショーを行う。 井上信太(美術家)、森裕子(ダンサー)、山田珠実(ダンサー)、前田真二郎(映 像作家)と3日間の即興公演。 立教大学に非常勤講師として、お話しに行く(如月さんの3回忌の意味も込めて)。 野村誠作曲作品集CD「せみ」がシュタインハントから発売。

2003
 クラリネット版「インテルメッツォ」(高橋信編曲)が札幌で初演。このクラリネッ ト版も、近々出版される予定。 マリンバと三味線のための「小さな平和活動」を初演。京都女子大学の児童学科1回 生の友人と、平和と子どもと農業などについて交わしたメールをテキストにした作品。 十七弦デュオのための「つみき」を初演。 アサヒビール芸術賞を受賞。 「子どもたちの創造力を育む」(東京大学出版会)に、『野村誠と子どもたちの共同 作曲』を執筆。 毎日新聞夕刊に連載開始。新聞に連載するのは初めてのこと。 ガムランの新曲「ペペロペロ」を発表。振付のように作曲。賛否両論ある。9月発売 のマルガサリCDに収録。 水口碧水ホールで、初の野村誠作曲作品個展。 続いて、groningenでも初の海外での野村誠作曲作品個展。 P−ブロッの1stCD発売。

この続きが2004年8月1日『音楽ノ未来・野村誠の世界2004』のプログラムに掲載されています。
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