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Tirta Kencana 第3回定期演奏会プログラム 2009.5.15

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プジョクスマンの再生を祈って 佐久間新(ジャワ舞踊家)

 2006年3月10日金曜日午後8時過ぎ、ジョグジャカルタにあるプジョクスマンで、僕は妻のウィヤンタリと踊っていた。演目は「スリカンディ・ビスモ」、男女の間の戦いを描いている。久しぶりに訪れた舞踊団の定期公演に出演したのである。普段は、多くても10数人の観客がこの日は50人以上の大盛況だ。いつもは滅多に踊らないベテラン・ダンサー達が踊る日に当たっていたので、みんな同窓会のように集まってきていたのだ。子連れのダンサーもたくさん見に来ていて、保育園のように賑やかだ。
 壁のないプンドポの外では、腰までの高さのクリーム色をした柵の向こうで、近所の女性がカインでくるんだ乳児を肩から抱えて、涼しそうな部屋着姿で見ていたり、若者達が停めたバイクの座席に腰をかけ、タバコをくゆらしていたり、観光客待ちのベチャッ引き達が座席にふんぞり返って、演目を満喫していたり、みんな思い思いの楽しみ方をしている。
 
 2006年5月27日土曜日午前6時前、ジャワ島ジョグジャカルタ州で大地震が発生した。日本との時差は2時間。地震から数分後、ウィヤンタリの弟のアンバルから電話が入った。火山が爆発して、地震が起こり、家の壁の一部と塀が壊れたとのこと。
 「近所の人の迷惑にもなるから、どうしようか?」
 数週間前から、ジョグジャカルタの活火山ムラピ山の活動が激しくなっていた。5月15日には、小規模な噴火も起こっていたので、みんないつ噴火するかと心配していたのだ。家族や我が家に下宿している川原和世さんや西岡美緒さんにケガは無いようだ。
 マルガサリのML(メーリングリスト)に第1報を入れた。
 ムラピ噴火 地震発生 塀が倒れる

 そんなに大変なことになっているとは、分からなかった。引き続き電話をしてみると、神戸でも被災した川原さんが「神戸の時と同じ感じだ。」とかなりのショックを受けて話すので、これは大変なことになったと、直感した。
 マルガサリのMLに地震後1時間から2時間にかけて、
 そんなに大変ではない。
 噴火はしていない。
 いや、神戸ぐらい揺れたらしい。
 家も半壊。市内で死傷者多数。
と、次々メールを流した。地震後2時間経っても、日本のメディアでは一切情報が流れなかった。知人のNHKの社員にも問い合わせたが、分からなかった。川原さんと西岡さんの家族へ電話した。
 「これから、ニュースでジャワの地震のことが流れますが、皆さん無事です。」
 タイムマシーンに乗ってあらわれた人みたいなセリフだ。12時のニュースで、ようやく報道され始めた。
 
 ジョグジャカルタ州は淡路島ぐらいの大きさで、その中にカブパテンと呼ばれる5つの県がある。今回、一番被害の大きいのは、市内中心部のクラトン(王宮)から南数キロに位置するバントゥル県だ。僕が学んだ芸術大学もここにあり、校舎にかなりの被害が出た。また、周囲には教官や学生もたくさん住んでいる。家が全壊し、テント生活をする先生とも連絡が取れた。

 市内中心部でも場所によっては、かなりの被害が出ている。王宮から東へ1キロの我が家も半壊のようだし、サスミント・マルドウォ舞踊団の本拠地プジョクスマンも同じ地域にあり、大きな被害を受けている。
 プジョクスマンは昔ながらの貴族の屋敷で、ダレム・アグンと呼ばれるジャワの伝統的な木造集合建築物である。舞踊やガムランを行う場所・プンドポは、大屋根がある壁のない建物で、4つの大きな柱が支えている。柱は梁で四角く繋がれている。真ん中の天井には彫刻あり、1900年に建造されたと刻まれている。そのプンドポが大きく傾いた。屋敷の中央部・プリンギタンには、ガムランや舞踊のコスチュームが保管されているが、そこは全壊した。
 プリンギタン奥の貴族の居住地・ダレムに面する裏庭に、舞踊団を創設した故サスミント・ディプロの家がある。妻のブ・ティアは息子のマス・アリンとともに、舞踊団を何とか切り盛りしている。経済危機、暴動、スハルト退陣、テロなど、次々と観光産業に逆風が吹く中、伝統舞踊を護ろうと、たとえ観客がいなくても、週に2回の公演を続けていた。
 電話でブ・ティアは「他の場所を借りてでも、なるべく早く子ども達のための舞踊クラスを始めたい。」と話してくれた。被災した先生に、とても勇気づけられた。
 
 2006年6月4日日曜日、碧水ホールで「クロノ・アルス・ジュンクンマルデヨ」が踊られる。これももちろんプジョクスマンで踊られていた演目だ。元々、ジョグジャカルタ様式の舞踊は、クラトン(王宮)で生まれた。しかし、今踊られているジョグジャ様式の舞踊のほとんどは、故サスミント・ディプロによって振付・構成がなされ、プジョクスマンで踊られてきた。また、数々の舞踊家もここで舞踊と出会い、研鑽を積んできた。きっと、これからも未来の舞踊家が育つ場所でもあるはずだ。現在、ジョグジャ様式の舞踊はプジョクスマンを飛び立ち、碧水ホールでも、東京でも、ロンドンでも、ヘルシンキでも、シンガポールでも踊られている。世界中のロモサス(サスミント翁)の子ども達が、プジョクスマンの再生を祈っている。 

 芸術大学や舞踊団の建物の再建には、時間もお金もかかるだろう。長くかかるであろう復興の過程で、舞踊や音楽の力が人々に勇気を与えるはずだと信じたい。舞踊や音楽を通じて、日本やジャワで支援できることを考え、行動していきたい。



さくま しん
 1995年から1999年まで、インドネシア政府給費留学生としてインドネシア国立芸術大学の伝統舞踊科に留学し、その研鑽の成果がジャワで高く評価され、現地の様々な舞踊公演に依頼されて出演。ジョクジャカルタのクラトン(王宮)の嘱託舞踊家として、クラトン主催公演にも多く出演。また、オリジナルな活動として伝統的な技法を用いた創作シリーズ(クタワン形式の楽曲を使用)を開始。マルガサリとジョクジャカルタのプジョクスマン舞踊劇団に所属。舞踊教室「リンタン・シシッ」を日本で主宰する。

2--------

 ティルトクンチョノメンバーからご来場のみなさまへ


 インドネシアは人口2億人弱、約17508の島々が一つの国となった、多様な文化が存在する豊かな国です。いろいろな楽器の音色が混ざり合い美しく響くインドネシアの伝統音楽「ガムラン」は、国や人々そのものを表しているように感じられます。

 ガムランは、それぞれの音と声と踊りが溶け合って一つになり、みんなが輪になって楽しむことができる音楽で、それを伝え続ける人と支えている地域の人々も豊かでステキだと思います。
 そんなガムランを演奏するのが大好きです。

 しかし、そんな心豊かな人々とガムランが今回の地震で大きな被害にあいました。私は、目の前に広がる楽器をあらためて近くで見ました。そしてこれを懸命に作った人々が辛い思いをしていると思うと、遠いところで起こったことなのですが、楽器から糸がでているようにこの場所と繋がった感じがしました。


 そこで、今、ティルトクンチョノの私たちが出来ることは、今日は自分たちの最高の演奏をして、私達の感じているガムランの楽しさを今日お越しの皆様に届けることだと考えました。もしも、私達の演奏が皆様の心に届いたら、ニュースや新聞などで被災したジャワの話が出てきたときには、ここには碧水ホールで聞いたガムランというステキな音楽があるということを、みなさんに思い出していただけるのではないかと思います。そうなればうれしく思います。

 一日も早く、被災された方々の生活が元にもどり、ガムランが不安なく奏でられる日が来ることを祈りながら演奏いたします。

                  森山 みどり(ティルトクンチョノ)

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ごあいさつ

「先日のジャワ島中部の大地震で被災されました皆様には心よりお見舞い申し上げます」

 本日はようこそ、ティルトクンチョノ「第三回定期演奏会」にお運びを頂き、ありがとうございます。メンバー一同厚くお礼申し上げます。

 ジャワガムランを楽しむ市民グループとして「ティルトクンチョノ」が誕生して早4年を迎えます。
 その間、定期演奏会を始め、昨年6月にはアメリカの作曲家ヴィンセント氏をお迎えしてのコンサート、同9月には滋賀県人権フェスタのオープニングセレモニーの演奏を仰せつかる等数々のステージを経験させて頂き、着実にあゆみを続けています。これも皆様方のご支援の賜物として偏に感謝申し上げる次第です。

 さて、本日の演奏会のプログラムでは三部の構成となっています。
 第一部では、ジャワガムランのゆったりした時の流れをご堪能頂こうということで伝統曲4曲を用意しています。4曲の中、最後の「チャンクレ」は舞踊曲となっていまして、メンバーの小松道子が踊り手を務めます。
 第二部は、アメリカの作曲家ルー・ハリソン氏の「ピアノ協奏曲」をお楽しみ頂きましょう。ピアノには植田浩徳氏を迎え、ピアノの音階をガムランの音階に調律してしまうという、専門家に言わせれば「とんでもないこと」を我々は今日やってしまいます。
 第三部では、はじめての演奏会よりすっかり恒例となりました我々の創作曲をご披露申し上げます。今回は、インドネシアの民話「お米の話」をもとにメンバーで脚本・曲を作り、ワヤン(影絵)を操ります。人形はインドネシアで作られたものに加え、今回のためにメンバーが製作したものも登場します。
 三部共お子様から大人の方まで幅広くお楽しみ頂ける内容となっていますので、どうぞ最後までゆっくりご覧下さい。
 なお、演奏会終了後は本日お越しの皆様に実際にガムランに触れて頂けるコーナーを設けます。興味のある方はぜひ音を出してみて下さい。また我々のグループ「ティルトクンチョノ」は毎週水曜日の午後7時から碧水ホールにて中川真先生の監修のもと練習を重ねています。こちらもぜひ見学にいらして下さい。

 最後になりましたが、本演奏会を開催するにあたり、企画監修を頂きました中川真先生、家高洋先生、並びに賛助出演下さるマルガサリ有志の皆さん、また、碧水ホールでのガムランの活動について平素から格別のご支援を頂いている福西碧水ホール館長、上村係長、他お手伝い下さる関係者の皆様に、心より感謝申し上げます。

ティルトクンチョノ代表  
岩井義則  

プログラム

第1部 伝統曲・舞踊

1.ガンサラン〜ロニンタワン〜ガンサラン
 Gangsaran 〜 Ldr. Roning Tawang 〜Gangsaran
  pl. 6

2.アラス・パダン〜コンド・マニュロ
 Ktw. Gd. Alas Padhang mg. Ldr. Kandha manyura
sl.m
3.ティルトクンチョノ
 Ldr. Tirtakencana
pl. 6

4.舞踊 クロノ・アルス・ジュンクン・マルデヨ
Kelana Alus Jungkung Mardeya
(音楽:Ladrang Cangklek, sl.m)

 休憩

第2部 現代曲

 ルー・ハリソン ピアノ協奏曲
   ピアノ 植田浩徳

 休憩

創作 お米の話
 インドネシアの民話から
 創作曲、朗読と影絵

音楽、詩はティルトクンチョノのメンバーが創作、編曲したものを中川真などが監修したもの、「ルスン・ジュム・グルン(米つき歌)」はジャワのわらべ歌です。
影絵に使用されるワヤンはその伝統的なものをローフィット氏からお借りした他、メンバーの坂本準子が制作しました。
終演後に、ガムランの演奏体験とあわせて、どうぞご覧下さい。

4--------

出 演

ジャワガムランアンサンブル
ティルトクンチョノ

 鹿野真理子
 岩井義則
 坂本準子
 伊藤久子
 尾関ひとみ
 田中あゆみ
 小松道子
 小梶喜憲
 日比 誠
 安井博昭
 石原弘之
 田中友紀
 北村裕子

マルガサリ
 中川 真
 家高 洋
 本間直樹
 西 真奈美


ピアノ

 植田浩徳

ジャワ舞踊

 小松道子

影絵

 坂本準子
 伊藤久子
 中村道男

 田中あゆみ(朗読)

協 力

佐久間新 ウィヤンタリ(舞踊指導)
ローフィット・イブラヒム(影絵提供・指導)
長谷川嘉子 森山みどり(ティルトクンチョノ)

碧水ホール


監 修 中川 真

主 催 ティルト クンチョノ

中川真 なかがわしん クンダン・企画監修
 サウンドスケープ、サウンドアート、東南アジアの民族音楽を主な研究領域とする音楽学者。ジャワガムランアンサンブル「マルガ・サリ」代表。京都音楽賞、小泉文夫音楽賞、サントリー学芸賞を受賞。
 著書に『平安京音の宇宙』など、最近には高橋ヨーコ(写真家)とともに日常の「音」をテーマに冒険小説「サワサワ」を上梓、フィールドワーク研究の新しい発表のスタイルとして注目されている。
 2001年9月、ガムラン楽舞劇「桃太郎第1場」の初演、以来、碧水ホールでの企、画監修に携わる。

マルガサリ ガムランアンサンブル
 1998年に誕生したグループで、大阪府豊能町のスタジオ「スペース天」を本拠としている。野村誠をはじめ多くの作曲家がこのグループのための新作を寄せる。インドネシア国立芸術大学と提携し、舞踊劇『千の産屋』他の共同作品を生む。現在は楽舞劇『桃太郎』制作に取り組み、全5場が2005年に完成予定。2003年に初のCD『ガムランの現在 Vol.1』をリリース。メンバーは20名、代表は中川真(大阪市大大学院教授)。音楽顧問はシスワディ(インドネシア芸大教官)。

植田浩徳
 兵庫県立西宮高等学校音楽科卒業 京都市立芸術大学音楽学部卒業 。MU楽団を主宰しクラシックを聴衆の身近に提供しようと試みる。MU楽団は関西の若い音楽家たちでつくられたミュージック・ユニット。現代音楽作品の演奏も多い。

ティルトクンチョノ
 「ティルト」は水、クンチョノは「金のきらめき」、日本の中央に位置する我が国最大の湖、琵琶湖のさざ波のイメージをジャワに伝えて命名されたものです。 
 マルガサリ中川真氏の監修、指導のもとに伝統的なジャワガムランを学ぶ市民活動です。
 ガムランによる現代音楽や創作の可能性にも注目しています。
 また、ガムランを利用したアーツ体験の「パッケージ・プログラム」の開発も大切な仕事になるでしょう。ガムランから生まれる多様なアーツ体験を、より多くの人に直接的、効果的に伝え得るような「しくみ」をつくりたいと願っています。
 これらの計画は甲賀市碧水ホールが,2001年秋にマルガサリ、野村誠さんらによるコンサートを開催し、2002年春にガムランを保有したことに始まっています。
 このガムランセットは、2001年夏から2002年春にかけて、インドネシア、ソロ市郊外の、サロヨ工房で、サプトノさんの設計監修により製作されたものです。スレンドロ、ペロッグの両音階が演奏可能で、王宮風の装飾が施されています。2005年秋にはサロヨさんを迎えて楽器のチューニングを行いました。
 定期的な練習は毎週水曜日夜、碧水ホールで。

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プログラムノート

1.ガンサラン〜ロニン・タワン〜ガンサラン
 この曲では、最初に同じ音を連打するガンサランから始まり、ややテンポが遅くなってからロニン・タワンという勇壮な曲が続く。そして、テンポが速くなって、またガンサランに戻るという構成になっている。
 この曲は、もともと中部ジャワの古都ジョクジャカルタの王宮での男性の群舞「ラウォン」の伴奏曲であり、太鼓以外はすべて青銅の楽器で奏される。

2.アラス・パダン〜コンド・マニュロ
 この曲では、(一曲目にはなかった)弦楽器や女声独唱、ヴィブラフォンに似た柔らかい響きの楽器や、木琴などが加わり、ガムランの優美な響きとゆったりとした時間の流れを楽しむことができる。
 この曲は、ジョクジャカルタと並ぶ中部ジャワの古都ソロ(スラカルタ)のスタイルで演奏される。曲の後半のコンド・マニュロでは合唱も加わる。この曲では弦楽器や歌が曲の中心となっている。

3.ティルトクンチョノ
この曲も二曲目と同じ編成で演奏されるが、途中で太鼓の種類が変わり派手に演奏する部分で合唱が入ることが特徴となっている。
 ところで、この曲の名前(ティルトクンチョノ)は、このガムラングループの名前ともなっており、グループのテーマ曲でもある。「ティルト」は「水」、「クンチョノ」は「黄金の」という意味(ジャワ語)である。 このグループの音楽監督スニョト氏(インドネシア国立芸術大学・講師)が、琵琶湖の水面を思い浮かべてこの名前を命名した。
(1.2.3.家高 洋)

4.舞踊 クロノ・アルス・ジュンクン・マルデヨ
(演奏されている曲:チャンクレ)

 クロノは、遠方にいる女性に恋い焦がれる若武者の舞踊と言われている。アルスは男性の優美な形のこと、ちなみに荒型はガガという。ジュンクン・マルデヨはマハバラタ物語の登場人物で、スリカンディという女性が恋の相手である。舞踊は、冒頭の様式的な振りの部分から次第に、生き生きとした躍動的な部分へと移行し、最終的にまた様式的な振りへと戻り、本の裏表紙をそっと閉じるように終えられる。舞踊、ガムランの楽曲とも非常にシンプルな構成となっている。ジョグジャカルタでは、舞踊を習い始めた若者によって舞われることが多いが、さりとて簡単な振り付けというわけではなく、シンプルな故に舞踊家にとっては技量が試される演目だともいえる。また、女性を欲望の象徴的対象と考えると、理性と欲との葛藤を乗り越えていく人生を描いている舞踊とも考えらる。クロノには、恋に落ちるという意味以外に、何かを探し求めて旅をするという意味もあるようである。この舞踊の見どころは、ひとつひとつの形をきれいに形取っていく点で、それはジョグジャカルタ王宮舞踊の大きな特色でもある。 (佐久間)

                 
6--------


ピアノ協奏曲をめぐって

  中川真

 昨年、ティルト・クンチョノはアメリカの作曲家、ヴィンセント・マクダモットの新作「小協奏曲」を初演した。また、その前年には、ルー・ハリソンの「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」を演奏している。アメリカの作曲家が続いているのは、偶然のようだが、偶然ではない。それは、インドネシアの外で最もガムランの盛んな国がアメリカであり、これまでにも多くの新作が生みだされてきているからだ。フロッグ・ピークというガムランの新作楽譜をメインに出版している会社もあるほどだ。なぜ、それほどまでにガムランがアメリカに浸透しているのか、それを書き始めると紙幅が圧倒的に足りないので、別の機会に譲るが、日本ではガムラン新作は極めて輸入超過の状況であることは間違いない。その最もソースの多い国がアメリカであり、次に、オランダ、イギリスが続く。日本では、おそらく40〜50曲ほどしか存在せず、その大半はマルガサリとダルマブダヤが演奏しているのが現状だ。
 さて、本日演奏するハリソンの「ピアノ協奏曲」は、1995年にダルマブダヤが愛知県芸術文化センターで演奏して以来、日本では11年ぶりの上演となる。その特殊性と上演にまつわる顛末は以下に記すが、おそらく、これから再び10年ほどは演奏されないであろう。初めに断っておくが、演奏頻度が少ないのは、作品がつまらないからではない。むしろ、ガムランの音律のもつ独特のエートスをいかした名曲だと思う。しかし、これを演奏するには、とんでもないハードルを越えねばならないのだ。それは音階を舞台にした、異文化の衝突現場でもある。
 ぼくたちの耳は、音楽の音はドレミファ・・・を当然のこととして受けとめている。西洋音楽やポップスをやっている限りはそれで十分だし、絶対音感をもっていたら、もっと便利だ。しかし、ガムランなどアジアの音楽にかかわると、その前提は一挙に崩れてしまう。特に東南アジアだ。日本を含む東アジアは、中国の理詰めの音階理論が功を奏してか、平均律にかなり近い。邦楽も「揺れ」はあるけれど、一応ドレミファでいけないことはないし、五線譜化も可能だ。ところが、インドネシアのガムランになると、隣り合った音程はひとつとして長2度(全音)や短2度(半音)をもたない。この時点で、絶対音感は全く役に立たなくなるどころか、とても妨げになる。音楽系の大学でガムランを教えるときは、ここが一番の障害になる。
 ガムランの音階には2種類あって、ペロッグとスレンドロという。ペロッグは7音をもち、スレンドロは5音をもつ。その7音や5音をつなぐ音程が、広い全・半音や狭い全・半音からなっていて、実に奇妙なのだ。奇妙だけど、これまた妙になごむ。
 そのあたりは不思議なのだが、厄介なことに、インドネシアのなかに音階の統一ルールがない。西洋音楽だったら、一応443ヘルツあたりがラの音で、それを中心に平均律で合わせている。例えば、Aオケのクラリネット奏者がBオケに行ったら、音階が合わないんで吹けません、などということはない。ところが、インドネシアでは原則としてひとつずつのガムランアンサンブルの音階が微妙に異なっているのだ。この微妙というのは、セント値でいえば5セント以内という、通常の耳で判別不能という領域ではなく、明らかに違うのだ。しかも、ほとんどがピッチの定まった金属の打楽器なので、アンサンブル同士で楽器を交換するわけにもいかない。その音階にフィットする楽器は、そこにしかないのである。

 これは中央集権的な考え方とは真っ向から対立する。地方分権の極端な例だ。なぜこんなことが起こるのか、ぼくにはよく分からない。音階を統一した方が便利かもしれないのに、そうはしないところに彼らの文化の特性がある。ガムランは楽器の調律に微妙な差異をもたらして独特のうなりをつくるが、そのうなりはどこかで一致することはなく、ジャワ津々浦々に果てしなく拡散していくのだ。しかも、現在にいたってもピッチを統一しようという意見すら出てこないところが気持ちいい。だから、もしあなたがガムランの楽器をもっているとすれば、それは世界で唯一無二の楽器なのだ。
 ところが、その楽器がジャワを離れて世界に浸透していくにつれて、様々なハレーションを起こし始める。例えば、欧米の音楽家ならば、西洋の楽器との共演を試みてみようとするが、音階の違いでそれができない。そこで、アメリカ人は西洋の音階に近いガムランを自作しようとしている。それを聴くととてもピュアな感じの音で美しいが、ガムランのもっている芳醇で懐深い味が消えてしまう。ぼくはあまり好きになれない。
 そこで、次にこんなことを考えた人がいる。西洋の楽器をガムランの音階に調律してはどうか、と。それがルー・ハリソンであり、本日のピアノ協奏曲(1988)はガムランの伴奏によるピアノソロだが、スコアには7音音階のペロッグと5音音階のスレンドロを、ピアノの12音に振り分けて調律し直すように書いてある。つまり、ピアノを完全にガムランの音階に変えてしまおうというのだ。これは、ある意味で衝撃的なアイデアだ。概ね、西洋のクラシックに携わっている音楽家は、西洋音楽が一番だと考えて、そも物差しを変えることはないが、ハリソンはピアノの音階を曲げてガムランの楽器に合わせようとしたのだ。彼はガムランの音階のもつ「分散性」に魅力を感じていたのだろう。
 そして、この曲を初演したときのことだ。当時、ダルマブダヤのリーダーとして、メンバーとピアニストを引き連れ、ぼくは名古屋に乗り込んだ。そのホールには日本を代表するYピアノが設置してある。その調律もY社が責任をもって負っているが、ガムランの音階への調律はまかりならぬというお達しがきていた。理由は、そういう音階を想定してピアノ線を張っていないからということだが、何かガムランをバカにしている視線がちらほらした。  結局、ぼくは京都の優秀な調律師に頼んで名古屋まで来てもらい、ホールの許可を得た上で、そのピアノをガムランの音階に調律してもらった。そのときY社からも2人の調律師がやってきて、作業を背後から監視するというものものしさだった。なんだかコンサート前というよりは、事件の現場検証のような雰囲気で、みながピリピリしていた。だが、前日のリハーサルはうまくいった。
 ところが、当日になるとどうだろう。ピアノの調律が平均律に戻っているではないか。いまだにこの理由がぼくには分からない。ひょっとしたら、ピアノの自己復元力で平均律に戻ったのか、それとも深夜にY社の調律師が密かに戻したのか・・・。これは深い謎に包まれている。あわてて、ぼくたちは調律をし直し、コンサートは事なきを得た。だが、実際に最も深刻だったのはピアニストだ。彼女(藤島啓子氏)は前日のリハーサルまでは自宅にある普通の調律のピアノで練習していたのだ。ガムランの調律になると、楽譜の音と実際に出ている音が全く異なってしまう。ほとんどパニックになっていた。ほんとうに人騒がせな曲である。
 そして本日の演奏。ピアニスト、植田さんは果たして大丈夫だろうか?

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