「さあ、トーマス」 「さあ、トーマス」プログラム  2006.4.24
最新 2006.4.24


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●障害のある人たちと舞踊家、演奏家、観客との
   コラボレーションによる即興パフォーマンス 
 
「さあトーマス」





2006年3月21日(火・春分の日)
13:00 開場14:00 開演    
     




主催 甲賀市教育委員会・甲賀市碧水ホール

●オープンします
テンペカフェ テンペとビール
Candra ジャワテイストの手作り小物


●終演後、ロビーでフル・ガムランによるジャワの伝統曲を演奏します。
終演後もごゆっくりお過ごしください。


プログラム

第1部

マルガサリによるセッション


わたぼうし語り部 伊藤愛子


(休憩)


第2部

おはなし  中川真



『さあトーマス』
     たんぽぽの家+マルガサリ


演出 中川真
   (大阪市立大学教授・マルガサリ主宰) 
出演 たんぽぽの家
(パフォーマンス、ガムラン演奏)
 伊藤愛子 奥谷晴美 中西正繁 中村真由美
 萩原宏一郎

マルガサリ(ガムランアンサンブル)
 中川真 佐久間新 本間直樹 林 稔子
 西真奈美 家高洋 河原美佳
 
美術 森口ゆたか
衣裳 京都造形芸術大学空間演出デザイン学科
    教授 中山和子 副手 出口春菜
照明 滝本二郎(エス・アイ・シー)
企画・制作 (財)たんぽぽの家(奈良市)
協力 社会福祉法人わたぼうしの会

『さあトーマス』における共生の秘訣

 この作品は、マルガサリと障害のある人が作りつづけている作品だ。「ともに」つくるというところに特徴がある。コラボレーションという言葉は、英語で collaboration と書く。これを分解すると、col(ともに)labor (骨惜しみすることなく働く)ation(こと)になる。確かに、私たちはどんなところに行き着くのか全く想像だにできずに、ここまでやってきた。少なくともいえるのは、手抜きは全くしていないということだ。だからといって素晴らしい結果になるという保証はない。
 『さあトーマス』をつくるというのはかなり特殊な営みだが、ともに何かをつくっているという実感はあり、その方法をずっと模索してきている。もちろん、『さあトーマス』では何を表現するのかということが最大の眼目であり、アートは手段ではなくて目的だと改めてここで言っておこう。共生を目的とする活動ではない。しかし、いかに表現するのかということを腐心する過程で、様々な「共同作業の智恵」を得たことも事実だ。
 初めに私が予想していた軌跡は、障害のある人とマルガサリの間にはかなり遠い隔たりがある。それがワークショップを重ねるうちに同化現象が起こり、限りなく近くなるだろう。そして、まるでブーメランのように、やがて再び遠ざかっていくのではないか、というものだ。確証があって考えたものではなく、いわば直感でそう思った。そして、いま確かにそのような軌跡をたどっているように思われる。同化への過程は容易に想像できる。「相手のことが分かりたい」「相手とともに過ごしたい」というポジティブな欲求がある限り、かなえられるだろう。にもかかわらず、再び離れていくというのは、どういうことなのだろうか。
 障害のある人とともに作品づくりをするときに、当初にたてた方針は、台本やスコアをつくってはいけない。ましてやそれを彼らに押しつけてはいけない、というものであった。障害のある人の表現を最大限に尊重し、そこから端緒を汲み取ろうというものであった。彼らの表現があまりに強烈で、そうせざるを得なかったし、逆にいえば、それほどの強烈さを持ち合わせていない私たちが一歩引かざるを得ないのであった。
 私はまず「同化」を試みた。こちらから近づいていこうという気持ちがある限り、それは可能なのではないかという前提のもとでだ。確かに、ワークショップを積めば積むほど、私たちは親しくなっていったし、確かな信頼関係も生まれた。作品を共同でつくるためのワークショップとは、作品本体をつくるというよりは、まずは信頼関係をつくる場なのであり、それ優先すべきだという思いに達している。1回限りの共演ではなく、今後長くつき合うことが予想される場合はなおさらだ。
 しかし、かなりの信頼関係を手に入れてもまだ、実際のところは、同化は危ういと思っている。もちろん、共生と同化は異なる。他者(障害のある人)のできる限り近くにいて、その人の感じ方や感覚、息づかいを知りたいと思うのは自然なことだ。それが共生への自然な道筋だと思うが、困難さを感じるのは、障害のある人たちの「本当の気持ち」がよく分からない点にある。そこに生じている「共生」は、私が語り、解釈する共生に過ぎないのかもしれない。彼ら自身が、本当に「自分らしさ」を保ちつつ、私とともにポジティブにあるのか・・・。その確証を彼らから引き出すことは難し




い。彼らはそれを言語化することも、説明することもないからだ。共に何かをしようという意思は両者にある。しかし、彼らのその意思を読み解く方法がまだ分からない。それは彼らの能力の問題であり、同時に私の能力の問題もでもあるのだ。できれば、それを明示する方法を彼らが編み出してほしいのだが、それは可能なのかと考えたとき、深い水底に引き込まれるような重い感覚に包まれる。ある意味では、こちら側だけの思いによって判断しているに過ぎない。ひょっとしたら分かり合えていると思いこんでいるだけなのかもしれないのだ。もちろん観客にとっては、そんなことはどうでもよく、パフォーマンスが面白ければそれでいいのかもしれないし、面白いということは、ステージ上での共生はうまくいっているということだろう。そういう表現としての共生とともに、関係としての共生をきちんとつくっていきたい、というのが私の願いだったし、それなしには、これほどのエネルギーを傾注する意味はない。  障害のある彼/彼女たちとともに作品をつくっていると、ありきたりな言い方になるが、「自己と他者との出会い」の根源に立ち会っているような気になる。当たり前と思っていたコミュニケーションができなくなることの驚き。自分がこれまで培ってきた様々な音楽的戦略や技術の、全部とまではいかないにしても、その多くを封印しなければならないことの苛立ちや苦しみ。異文化との出会いに似ているが、実際にはその理解の過程はずいぶん異なる。結果としては、自分をどのように「壊して(毀して)」いくのかという実験をしているような気がする。しかし、完全に壊れることはない。あくまでパフォーマンスを行っているという演技的な状況が、私たちを遠い非現実に連れ去ることなく、この現実に留め置いてくれている。しかし、障害のある人が演技をしているのか、素のまま

「リプトンハウス」のテーマソング

リプトンハウス、紅茶のカフェ (x2)
箱のなかみは、椅子椅子
箱のなかみは、机机
箱のなかみは、ベッドベッド

リプトンハウス、紅茶のカフェ (x2)
いつにできたか、ノーノー
どこにあるのか、ノーノー
だれにきいても、ノーノー

寝る場所うえにして、2階にしよう
きれいな段ボール引っ張って
こんな部屋いいかな、こんな部屋いいかな
ティーバッグ投げたら、あかんあかん
勉強するなら、勉強するなら
リプトンハウス、紅茶のカフェ
優雅なカフェ、優雅なカフェ
はるさんと一緒に飲むんだ。
はるさんと一緒に泊まるんだ。

でも、太陽の恵みって、笑えるなぁ。

でそこに立っているのか、はっきりとは分からない。それに馴染んでいくにつれ徐々に理解していくという予定調和的世界に到達することはない。そういう意味では、表面的な文化相対的姿勢で臨んでも、全く役に立たない。いっそのこと互いに理解できないのではないかという割り切りのもとで進めていかねばならない。ただ、その「理解」とはいったい何かという問いを常に繰り返すことも大切だ。それは私が携えている理解の概念から脱出することでもある。

私:はるみさん、どこへ行くの?
はるみ:結婚する?。
私:誰と結婚するの?
は:赤ちゃん。
私:え? 赤ちゃん?
は:生まれた。
私:生まれた?
は:っくりした(びっくりした)・・・

 日常、そしてパフォーマンス時を問わず、このような会話が繰り返される。私はとりあえず、彼女の軌跡を追いかける。しばしば鸚鵡返しに問い直す。一見すると、無意味な問答が無限に続いていく。しかし、彼女の内部ではなんらかの真実が発動しているのだから、無意味ということはない。果てしない問答を繰り返しながら、しかしルーティンワークに堕さないように注意して共同作業を続けていく。それはもちろん会話のためではなく表現のためだ。彼女の突拍子もない反応は、しばしば詩的ともいえる衝撃をもたらす。言葉の驚き、身体運動の驚きが、単なる反応を表現の領域へと促す。その面白い言葉、動きを私たちは模倣する。このような過程を経ていくなかで、私たちは相互作用と出会う。相互作用には違いないが、直裁とは言い難い。どこかねじれた相互作用が私たちの関係性をつくっている。
 そこには様々な「越境」や「跨ぎ越し」のコミュニケーションが存在している。私と彼女たちの間の距離は広がったり、縮まったり。この安定しない関係こそが特徴だろう。明日、何らかの理由で突然信頼が断たれるかもしれない。そして、偶然、素晴らしい距離が生まれる。それはいかにも気持ちのいい距離だ。この距離感はどのように獲得されるのか、全くマニュアルはない。同化の過程を経ながら、完全に同化することなく、ふと離れて定まる距離感。この位置を見つけることが共生への第一歩のように思える。それはあまりにも強い個性の多様性、差異性を目の前にしている私の偽らざる実感だ。彼らの個性は、私たちの個性を逆照射してくる。何となく同質性を求めてしまう私の日常を批判する。
 こういった共生の技術は極めて個的なものであり、一般化は難しいかもしれない。これまで教科書もない手探りの状態でコラボレーションを続けてきた。もちろん、このように言語化することによって見えてくることは多い。しかし、そのような言語化がひとつの領域をつくり、身動きをとれなくしてしまうことが多いというのも事実だ。理論によって個別の実践を回収してしまわないこと。そこをうまくやれば、この種のコラボレーションの素晴らしさは伸ばすことができるだろう。永遠に模索は続きそうだ。
(中川 真 なかがわしん)





佐久間新:1995年から99年までインドネシア芸術大学舞踊学科に学ぶ。ジャワ伝統舞踊を中心としながら、野村誠(作曲家)、由良部正美(舞踏家)らと共同作品を発表。現在、障害のある人たちとの即興の中からダンスを模索中。

中川真:サウンドスケープ、サウンドアート、東南アジアの民族音楽を主な研究領域とする音楽学者。マルガサリ代表。京都音楽賞、小泉文夫音楽賞、サントリー学芸賞などを受賞。著書に『平安京 音の宇宙』(平凡社)、『小さな音風景へ』(時事通信社)など。2003年に高橋ヨーコ(写真家)とともに日常の「音」をテーマに冒険小説『サワサワ』(求龍堂)を上梓、フィールドワーク研究の新しい発表のスタイルとして注目されている。

「わたぼうし語り部」:障害のある人たちが身体や言語などの障害を個性としてとらえ、昔話や創作童話などのお話に自分の思いを重ねあわせて語り、人に思いを伝えるパフォーミングアーツです。自らの存在をかけて語る"語り芸"は、人の心をゆさぶり、魂を目覚めさせる力があります。

マルガサリ:1998年設立。大阪府北部の山間にある「スペース天」を本拠地として活動している。ジャワの伝統音楽と新たな創作を本格的に追求する団体として注目を集める。
 様々なコラボレーションを重ね、最新では2005年4月に障害のある人たちとの作品「さあトーマス」を築港赤レンガ倉庫(大阪)にて発表。2005年9月には、5年越しで制作中の「桃太郎」第5場(最終場)を碧水ホール(滋賀)にて上演予定。 発表CDに「ガムランの現在Vol.1」。代表は中川真(大阪市立大学大学院教授)。

ティルト クンチョノ
碧水ホールのガムランチーム●参加者募集中
 2002年7月発足、碧水ホールの保有するジャワガムランフルセットの名前、また、その楽器で練習をしているグループの名前です。
 ティルトは「水」、 クンチョノは「金のきらめき」。「さざ波」のイメージをジャワに伝えて命名されたものです。
http://www.jungle.or.jp/sazanami/gamelan/

「ガムラン」ってなに?

 ガムランはインドネシアやその周辺の民族音楽の一つで、青銅のゴングやシロフォンのような青銅琴などの打楽器を中心に構成されている器楽合奏です。また、それに加わる声楽や舞踊もガムランを構成する大切な要素とされます。
 バリ島のものは踊りや演奏の華麗なこと、ジャワ島のものはそれらの優美なことで知られています。
 豊かな音域と音色、特色のある音楽理論は世界中の人々の心をとらえ、現代の著名な作曲家達も、ヨーロッパのオーケストラの地平を越え得るものとして、多くの作品を書いています。
 碧水ホールでは2001年9月にマルガサリ(代表中川真)のコンサートを開催、2002年春にジャワガムランフルセットを保有、7月にはその演奏を楽しみながら、新しい共同の方法と音楽の地平を探るグループ「ティルト クンチョノ」をスタートさせました。
 2004年2月の「ティルトクンチョノはじめての演奏会」では、アメリカの現代音楽の作曲家ルー・ハリソンの「ヴァイオリンとチェロとガムランのための二重協奏曲」を演奏しています。また、2005年6月にはマルガサリコンサート「碧の森」で、アメリカの現代音楽の作曲家ビンセント・マックダモット氏による新作「ティルトクンチョノのための小協奏曲」を演奏しています。
 2003年8月「音楽ノ未来・野村誠の世界」では伝説の名曲「踊れ!ベートーヴェン」が6年ぶりに再演されたのも印象的な出来事。

 碧水ホールではすでに、西洋のオーケストラを扱う「サザナミ記念アンサンブル」が「こどもも大人もはじめての人も」というキャッチフレーズで2000年6月にスタートしていますが、この活動と好対照の、 碧水ホールの特色を示すものとなるでしょう。


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